ラング&ファガス:狼の指輪銘板

9)大災厄

「まことにもって、あいすいません。このようなものしか用意できなくて」
 執事のバイスターは山盛りのサンドウィッチを載せた大皿をテーブルに載せた。
「いや、こちらこそ、いきなり押しかけてきてしまって」
 こちらもひどくきまりの悪い表情で、ラングは言った。
 虚空の闇の中にはまた大きな満月がかかり、晴れ渡った夜空には一片の雲も浮いてはいない。無数の星々たちが、吸いこまれるような幻想図を頭上に描いている。
「あ~、あたい、それ食べる」
 パット少女がサンドウィッチに手を伸ばした。両手に一つづつ獲物をつかむと、さっとテーブルから離れる。
 ファガスが叫んだ。
「おいこら、ピー。どうしてお前がここにいるんだ。それにラング。今日は宴会はないぞ。それにみんなも招待した覚えはない」
「あたい、お婆さんにここに行けって言われたの」
 口一杯にサンドウィッチを頬張りながらパットは説明した。
「お前、ファガスに謝ることがあるだろうって。お婆さんったら何でもお見通しなんだよね。それに今夜は泉のそばにいちゃいけないって」
 ファガスはいらだちのあまりに手をばたばたさせて言った。
「謝ることだあ? おいこら、ピー。今度はいったい何をした。それにラング。夜更かしは体に悪いぞ。用がないんだったら、ベスを連れてうちに帰れ。サンドウィッチならそのまま持って帰っていいから」
 その様子を見ながら、どうしてファガス坊ちゃまは、パットさまがいると、こんなに幼児的な反応をするのだろうと、執事のバイスターは思った。
 これはもしやパットさまの行動に影響されているのだろうか?
 主人の行動を執事が心配して見守ることは当然だが、それに干渉することは執事道にもとる。敢えて、バイスターはそのことから注意をそらした。
「言っておくが、食事が目当てで来たのではないぞ」ラングは言った。
「それより、ファガス。何をそんなに焦っているんだ? わたしたちがここにいたらまずいわけでもあるのか?」
「別に焦ってなんかいないぞ」ファガスは抗議した。
「ファガス。あくまでも念のために聞くが。例の指輪、ドラウプニル。あれは全部破壊したんだろうな」
 ファガスが返答するまでに少し間があった。
「もちろんだとも」
「一つ残らずだな?」ラングが念を押す。
「一つ残らずだ」答えるファガスの声が裏返っている。
 ラングはじっとファガスの目を見つめながら、太く静かな声で言った。
「そうか、それならいいんだ。ただ、ふと、な。昨日、こんな想像が浮かんだんだ。ファガス。お前さんが、指輪を破壊せずに取っておいて、それを今夜の満月に合わせて、こっそり増やすのではないかという、そんな想像がだ」
「まさか、ラング。それは考えすぎというものだ」
 けらけらと、裏返った声のままで笑ってみせてから、ファガスはバイスターに目を向けた。いや正確に言えば、ラングから目をそらしたのだ。
「バイスター。まさか、お前、ラングに喋ったのじゃないだろうな?」
 この指摘には、さしものバイスターもあわてた。
「そんな。坊ちゃま。執事たるもの、主人の秘密を喋るわけがありません」
 ラングはファガスの前で、ゆっくりと指を振った。恐ろしく太い指だ。その太い指は大きな丸太を思わせるラングの腕につながっていて、その丸太のような腕は巨大な岩の塊を連想させるラングの肉体につながっている。その巨大な肉体の持ち主は言った。
「ちがうぞ。ファガス。ちがう。バイスターは何も言ってはいない。ただ、わたしはこう考えたのだ。もし、わたしがファガスだったならば、無限に金を生み出す指輪をそう簡単に破壊するのだろうか、とな」
「そんな。ラング。誤解だ」
「そうか。誤解か?」ラングはその大きな手の平で、自分の大きな顎を撫でつけながら言った。
「誤解だとも」ファガスは断言した。一滴の脂汗がその額に浮かびあがった。
 ラングの大きな手が顎を撫でるのを止めた。それが降りてくると、ファガスをわし掴みにして、空中に釣り上げる。
「こら、ラング。何をする。降ろせ!」ファガスが喚く。
「いや、降ろさない。お前が本当のことを言うまでは」ラングは静かに、太い声で言った。
「だから言っているだろ。指輪は全部破壊したと」ファガスは強情を張った。
「なあ、ファガス」いきなりラングは真剣な顔になった。
「わたしはきみを友だと思っている。きみには色々と騒ぎを引き起こされて、その後始末をさせられてきたが、それでも親友だと考えている。騒動を起こすのはお互いさまだからな。助けあうのが友達ってものだ。将来、事業を起こして大成功を収めるのならば、他でもない、きみと一緒にやりたいとも思っている。わたしが金持ちになるならきみも金持ちになるべきだし、きみが金持ちになるならわたしもまた金持ちになるべきだ」
「ああ、それはわかっているさ」ファガスも神妙な顔つきで答えた。
「じゃあ、ことこれに関しては嘘をつかないでくれ。指輪は壊していないんだな?」
 ラングは自分の手の中のファガスをじっと見つめた。ファガスは両手を上げてみせた。
「わかった。降参だ。確かに壊していない」
「じゃ、あらためてお願いする。それを全部壊してくれないか?」
「金の卵を産むガチョウをこの手で絞め殺せというのか?」
「それが本当にただの金の卵なら、誰もこんなことは言いはしないさ。頼む。ファガス。あの指輪は兵器なんだ。それも第一級の。危険なんだよ」
「しっかり管理すれば大丈夫さ。ラング。危険はない」
 パットが顔を上げると、空中に吊り下げられたままのファガスに向かって口を開いた。
「あのね。あのね。ファガス。あたい、あやまらないといけないことがあるんだけど」
「いま忙しいんだ。パット。頼むから、後にしてくれ」ラングは素早く言った。それから自分の手にぶら下げたままのファガスに向かう。
「そう。危険はないかもしれない。だが、ファガス。頼む。これは友達としての頼みだ」
「いやだと言ったら?」
 しばしの沈黙が降りた。それからぼそりという感じで、ラングはつぶやいた。
「おれは故郷に帰る」
 え、と全員がつぶやいた。
「故郷だ」ラングは念を押した。
「巨人族の居留地だ。おれはあそこに帰り、この文明世界にはもう戻らない。一生を、泥と埃に塗れて蛮族として過ごす。たった一人の友が友情より金を取るならば、もうここには未練はない。
 ファガス。きみとは絶交だ。おれが死ぬまで、二度ときみとは顔を会わさない」
 その場が、しんと静かになった。ラングが自分のことを、おれと呼ぶのも奇妙ならば、故郷のことに触れることも滅多にないことであった。
「友よ」ラングは言った。「おれと金の指輪と、どっちが大切なんだ?」
 ラングの口から出るとは、誰も考えたことさえない言葉であった。それだけに、その言葉が嘘でないことは、その場に居合わせた誰もが理解した。
 しばし逡巡した後で、ファガスはついに折れた。
「わかった。お前の言う通りにする」
「感謝する」
 一言答えると、ラングはテーブルの上にずっと置かれていた小箱の上に手を置いた。
「で、指輪はこの箱の中か?」
「最初から知っていたんだな。ずるいぞ、ラング」
 宙に吊り下げられたままのファガスが言う。
「いや、確信はなかった」ラングはそう言うと、小箱を取って、ファガスの手の中に押しこんだ。
「バイスター。金槌と鉄板を持って来い。小さい方のやつだ」
 ファガスはそう言うと、箱を開けた。箱の中には金の指輪が無造作に積み上げられている。決心したならば早いほうがよい。ぐずぐずしていると、また決心が揺らいでしまう。
「わたしの魔法探知でも、その箱の中は見えなかったぞ」ラングは指摘した。
 ファガスは自慢げに鼻の下をこすってみせた。
「当たり前だろ。このファガス特製の魔法遮断箱なんだから。あらゆる魔力も魔術も、この箱を通り抜けることはない。指輪の増殖を防ぐことのできるたった一つの方法さ。よかったよ。完成が間に合って。
 実を言えば、指輪を壊すことになって少しほっとしている。ザニンガムの野郎が近くを嗅ぎまわっているようだしな」
「やはり、きみのところにも来たのか。どうやら指輪が大規模にマナを吸収したために、あちらこちらで魔法製品が故障を起こしているらしい。このまま続けていたら、どのみちザニンガムに見つかることになっていただろうな」
 ここでラングは満足のため息をついてみせた。
「やはり、ニーチャムの魔法経済則は正しかった。金の指輪一つを作るのに必要なマナは、その黄金の価値以上の被害を産み出している。そのすべてを損害補償する気はあるかね? ファガス。我が友よ」
「ぶるるる。とんでもない。おれは何もしていない。おれは何も知らなかった。おれは何も聞かなかった。おれは何も見なかった」
 バイスターが持って来た鉄板と金槌を、ファガスはラングに押し付けた。
「お前がやれ。おれは辛くて、とても見てはいられない」
 満月はじりじりと天頂目指して登っていく。
 ラングは金槌を手にした。急がなければ、また指輪が増えてしまう。増殖一回ごとに、指輪は八倍に増える。ということは、吸収するマナの量から考えて、魔法が空っぽになる面積は約四倍になる。
 近くの街がその魔法無効化領域に巻込まれるさまを思って、ラングは体を震わせた。冗談じゃない。そんなことになれば、大騒動だ。調査委員のザニンガムは意地でも、この現象の原因を突き止めることだろう。
 ハンマーを振り上げ、指輪に叩きつける。純金の指輪はとてももろい。一叩きするだけで、中央に穴の空いた金の円盤へと化ける。増殖の魔法は指輪の構造に組みこまれているので、これですべての魔法は失われる。
 こんな華奢な指輪が世界を丸ごと滅ぼすだけの力を持っているなんて、その結果を目の当たりにした今でも、ラングにはとても信じられない思いであった。魔法の効果というものは、量よりも質の方が大事なのだ。
「ひとつ」ラングはつぶやいた。
 ファガスは目をつぶると、つぎの指輪を小箱から出して渡した。
 ハンマーが上がり、また振り降ろされる。
「あのね」
 パットが喋りかけた。ラングの大きな手の平がその視界を遮る。
「まってくれ。いま、話しかけないでくれ。数がわからなくなる」
 沈黙を守っていたベスがパットをテーブルから引離した。
「ねえ、パット。ラング先生の邪魔をしちゃだめよ。話ならあたしが聞いたげる」
 ハンマーが上がり、また振り降ろされる。ラングは鉄板の上に溜まった純金の円盤、指輪のなれの果てを、払いのける。これが最終兵器の名残だとは、誰が想像するだろうか。
 鉄が鉄に衝突する衝撃音。それは永遠に続くかと思われた。
「六十ニ」ラングはつぶやいた。満月はまだか。あと、二つ。
 金の指輪を鉄板の上に置き、容赦なく振り下ろす。
「六十三」
 よし。あと一つ。
 ラングは金槌を置くと額の汗を拭った。指輪を潰すことには直接的な危険はないとわかっていても、やはり緊張はするのだ。
 左手をファガスの方に伸ばす。
「さあ、ファガス。最後の一つを渡せ」
「え?」とファガス。「おいおい、ラング。いまので最後だ」
「馬鹿言うな」ラングが目を剥いて、ファガスを睨みつけた。「ごまかそうとしても駄目だぞ。ファガス。潰したのは、全部で六十三だ。指輪は全部で六十四のはず。隠しても無駄だ。さあ、もう一つ」
「冗談じゃないぞ。ラング。ほら見てみろ」
 ファガスは小箱の中を見せた。空だ。それはラングにもわかった。なにか冷たいものが、ラングの幅広で大きな背中を駆け降りた。
「まさか、じゃあ、一つ足りないというのか?」
 ラングの顔を見て、ようやく事態を飲みこんだファガスの顔色が変わった。パタンと音を立てて、小箱を閉めると、言った。
「でもどこに?」
「それはおれも聞きたい」ラングは答えた。「ファガス。さっき、わたしに何と言った? 指輪をきちんと管理すれば大丈夫だって?」
「はて? おれはそんなこと言ったっけ?」
 ファガスはとぼけてみせたが、声は震えていた。とんでもない毒蛇が檻から逃げ出してそこらを這いずりまわっているのだ。落ち着いていられるほうがおかしい。
「先生!」パットの話を聞いていたベスが振り向いた。「その指輪がどうなったかわかりました」
 パットが泣きだす。
 手短に話すベスの言葉を聞き、ラングとファガスは唖然とした。
「なんてこったい。そうか、あのとき、指輪を一つ、ちょろまかしたんだな」
 ファガスは叫んだ。脳裏に前回の満月のときの光景が浮かぶ。指輪が増殖した直後だ。あたしにも見せてと言って、パットが指輪の箱に手を伸ばした、あのときだ。
 大変なことになったとファガスは思ったが、それでもこれ以上パットを責めないだけの良識は残っていた。
「指輪は森の中のどこかか」事情を聞いたラングが青ざめた顔でうめいた。
「どうする?」ファガスが周囲に広がる森を見つめながら、絶望の表情を浮かべる。
 妖精の森は広大な面積を誇っている。そのどこかの泥の中に転がっている指輪一つを、どうやって探せばいいのだろう?
「魔法しかないだろう」ラングは言った。「満月まで、もう間がない」
「馬鹿言え、ラング。この森を探しきれるような魔法なんて、闇のスボークにだって無理だ」
 魔術師ギルドの三巨頭の一人の名を挙げて、ファガスは言った。
「じゃあ、手をこまねいて見ていろというのか?」
 ラングはそう言うと立ち上がった。その大きな両手に奇妙な光が宿る。即興で魔法の呪文を組みながら、ラングは両手を振り始めた。
 流れを意味するルーン文字ラグズ。報せを意味するルーン文字アンサズ。弾けを意味するルーン文字バッカズ。冥界よりオーディン神が盗みだした魔法のルーン文字を使って、次々と術式が組まれ、空中に輝く力の構造物が生まれ始める。
「森全体を魔法で埋めるつもりなのか」
 呆気に取られたような口調でファガスはつぶやいた。凄まじいレベルの魔法だ。だがその呪文の一部でももし間違っていたら、魔法は予測のつかない結果を引き起こす。だが確実に言えることが一つある。これらの魔法が動作するためには、ラングの精神の一部を術に織りこまなくてはいけないのだ。その結果として、魔法が暴走すればラングは取り返しのつかないダメージを被ることになる。
 だがそれでも、やるしかないだろう。そうつぶやきたかったが、ラングの喉は魔法の呪文で一杯になっていた。
 ほどなく、すべての術式を埋めおわると、ラングは両手を下げた。
 目の前に浮かんでいるのは光で彩られた巨大な塔であった。純粋に魔法だけで構成されている、不可思議な存在。
「魔法放射の呪文だ。対象のイメージを投げ、それに反応する地域を見つけだす」
 ラングは説明した。
「こんなたわけた魔法術式は初めて見たぞ」ファガスが感想を述べた。「それに目に見えるほどの強度を与えるとは。ラング。こんなに力を使って死にたいのか?」
「いまはそんなことを言っているときではない」
 ラングは一言だけ言い返すと、魔法の塔に片手を当てた。
「指輪」そう命令した。
 魔法の塔が光輝き、無数の光の流れが塔の先端から出て行くように見えた。すぐにその光は逆流し、ふたたび塔へと戻った。
 術が働くときのひどい頭痛にラングは耐えてみせた。
「範囲が広すぎる。この地域にあるすべての指輪に反応したぞ」ラングがうめいた。
「金の指輪」ファガスがつけくわえた。
 魔法の塔が揺らぎ、またもや同じプロセスが繰り返された。
「かなり絞ることができたぞ」ラングは感想を述べ、続けた。「ファガスが作った魔法の金の指輪」
 光が乱舞する。夜を切り裂いて、淡い光の流れが森を洗った。ラングは歯を食いしばって、頭を満たした痛みに耐える。人間の神経を術の流れに組みこむのは術者にとっては危険な行為だが、魔法が暴走したときの周囲の安全は確保される。術者が気絶するか死んだ時点で術式が分解するためだ。
 やがて光の流れは一つを残して消え去った。
「あった! この方向だ」ラングが叫んだ。
「この方向と言われても、この方向のどこだ?」
 テーブルの上に登ったファガスが、光の流れの先に目を凝らした。
「ええと、待て。木霊の反応速度を見る。四百・・八百・・」
「その必要はありませんわ。ラング先生」光の筋の先を見つめていたベスが言った。「あたしにはわかります。ほら」
 ベスは指差した。光の流れるその先を。
「フェンリル教徒が占領している丘の上です」
 戦慄がすべてを埋め尽くした。その意味に気がついたラングとファガスは息を飲んだ。
「馬鹿な、やつら。あの指輪をフェンリル狼の供物にするつもりなのか」
 ラングがつぶやいた。これは考えうる最悪の状況だ。
「フェンリル狼は長い間マナを蓄積してきた、その腹の中にドラウプニルを放り込むだと」
「増殖。増殖するぞ」ファガスが必死の形相で周囲をきょろきょろと見回した。「すごい増殖率だ。魔力濃度が高ければ、指輪の増殖は一回では止まらない。太古からの魔力の分量は。ええい、不確定要素が多すぎて計算ができん」
「いや、それより問題は、それが頭の上から落ちて来るということだ」
 やや落ち着いたラングが、奇妙に平板な口調で説明した。
「月は世界樹の上にあるから、ミッドガルド界だけじゃない。伝説の中に語られるその他のすべての世界の上にも落ちてくる。アースガルド界から始って、ニブルヘイム界までを含む、すべての世界にだ」
 そこでラングは言葉を切ると、ファガスと正面から見つめあった。そうなれば、あらゆる世界から魔法が失われる。それに依存したすべての生命とともに。魔力のすべてが奪われる。今度こそ、徹底的に。
 両者同時に声を発した。
「止めなくては!」
 その声を合図にしたかのように、丘の上で光が弾けた。闇を背景にして黒く盛り上がった丘を中心にして、ぼやけたような赤と緑の光が広がる。その中を一筋の白光が、まっすぐに立ち上る。
「大変だ!」ファガスが喚いた。「やつら、打ち上げやがった」
 むう。ラングがうめいた。その両手が広がり、光を発する。早口の呪文が、その唇から産み出される。
 これほどの速さで攻撃呪文を編み上げる人物をファガスは知らない。ファガスが魔法道具作りの天才ならば、ラングは即席魔法の天才なのだ。
 収束。照準。放射。ルーン文字が組み上がる。その間にも、着々と魔法の箱は月への旅程をこなす。
「まさか、本当に月まで行きませんよね? あれ」ベスが心配顔でファガスに尋ねた。
「行く」苦渋の顔でファガスは答えた。「誰が何と言おうとも、あれは行くんだ。そう作った。頭のおかしな狂信者相手でも、おれは手は抜かない。技術者の誇りだからな」
「まったく、ファガスは毎回これだから」ラングが叫んだ。
 その魔法を帯びた腕が宙を駆け上がる発光体へと向けられる。
 ラングは最後の呪文を唱えた。腕の周りの光が空中へと飛翔した。
 飛び出したのは、魔法により作られた光の鷹だ。目標へと一目散に飛び、体当たりとともに、すべてを焼き尽くす炎を巻き散らす。
 本来なら魔術師同士が決闘に使うためのものだ、攻撃呪文としては比較的に安定しているし、術式を素早く織りあげることができる。何よりも、術の有効射程が恐ろしく長い。
 光の鷹は、上昇する魔法の箱目がけて、一気に距離を縮めた。
「やったぞ。命中する」ファガスは小躍りしながら叫んだ。
 ラングとファガスの背後から、もう一筋の光が沸き起こった。それは恐るべき速さで空中を駆け上ると、ラングが作り出した光の鷹を撃ち抜いた。
 魔力と魔力がぶつかりあう。魔法構造が破壊され、光の鷹は体の裂け目から魔力を吹き出しながら、空中分解する。
 呆気に取られたラングとファガスの背後から、声が響いた。
「よし、全員、その場で動くな」
 もちろん、その声に応じて全員が動いた。声の発する方向に顔を向ける。
 ザニンガムが両手を前に突き出した姿勢のまま、叫んでいた。
「動いた者は射殺する。呪文を唱えた者もだ。諸君には抗議する権利がある。ただし、魔術師調査局の権限に抵触しない範囲でだ。これは正式な調査および逮捕行為であることを、公式に表明する」
 片手をすばやく振ると、調査局の認証体を呼び出す。空中に炎の文字で、彼が調査委員ザニンガム・ウルフェウスであることを示す印が浮かび上がる。
「なんてこったい、こんなややこしい状況で、石頭のザニンガムのお出ましかい」
 ファガスがつぶやいた。
 執事のバイスターは動じることもなく深々とお辞儀をした。
「これはこれは、新たなお客さまですね。ザニンガムさま。ただいまお茶をお出しいたしますので」
 その場を立ち去りかけようとしたバイスターに向けて、ザニンガムの手の指輪がぴたりと照準を合わせた。
「動くな。そこの執事。お茶なんかいらん」
「ではサンドウィッチでも」
 バイスターはさらりと言ってのけた。死を生み出す指輪をつきつけられていても、その表情にはいささかの曇りもない。まさに執事の鑑である。
「食い物もいらん」いらいらとザニンガムは言った。
「この間はよくも変な匂いのお茶を飲ませてくれたな。お陰でおれは、あの糞っ垂れな蜥蜴馬を追いかけて、一日半も森の中をさ迷ったのだぞ」
「失礼ながら、ザニンガム様。ご婦人がたの前ですので、汚い言葉はご遠慮くださいませ。それに、変な匂いだなどとはとんでもない。あれはメスト茶の最高級品でございました。アリスタナル家の高名なるお茶倉庫より搬出したもので、失礼に聞こえるかもしれませんが、普通ならば一般の方々の口には決して入らないものでございます」
 ラングたちには決して使わない慇懃な口調で、バイスターは言ってのけた。ザニンガムの顔色が真っ赤に染まる。その腕はぶるぶると震えたが、指輪から死の魔法は発射されなかった。
「まあ、いいさ」ザニンガムは顔に邪悪そのものと言った笑みを浮かべた。
「とにかく、お前たちの犯罪の証拠はつかんだ。その代物はいったいなんだ」
 空中に光で織りあげられた魔法の塔を顎で示す。
「満月の晩の邪神召喚の儀式か。張りこんでいて正解だったな」
「これが邪神召喚の魔法に見えるのか?」ラングが怒ったように言った。「説明しよう。そこのルーンは」
 ザニンガムは指輪をラングに向けた。
「説明はいい。じきに配下の調査員たちがここにやってくる。それまで全員、壁に向かって両手をつけ。私語も一切だめだ。呪文を唱えるおそれがあるからな」
 来ると言っても、実際のところはわずかに二人だ。徹夜仕事にぶつぶつと文句を言う連中を叩き起こしての捕り物劇だ。それだけの成果が出なくては割に合わない。ザニンガムはそう考えていた。
「ファガス。魔法の箱はどうなった?」ラングはつぶやいた。
「見えなくなった。おれの計算だと、あと三十数えるぐらいで、月に到達する」ファガスは答えた。もう駄目だという表情になってしまっている。
「この石頭を説得するというのは?」
「駄目だろうな。おれの計算だと、優に三十年はかかる」
「魔法の箱だ?」
 ザニンガムが聞きつけた。その左手がテーブルの上におかれた小箱に伸びる。防御用の魔法の指輪がはめられている手だ。どんなものに触っても危険はない。小箱の蓋を押し開けて、中身を確かめる。空っぽだ。
 ふん、とザニンガムは鼻息も荒く、小箱を投げ棄てた。つまらない。ただの空箱だ。禁じられた宝石でも出てくるのかと期待したのに。いまの所は、この見たこともない魔法の塔だけが、邪神召喚の証拠だ。魔神召喚に必須の魔法陣もなければ、いけにえの姿もない。まてよ、この小さな女の子がいけにえ役なのか?
 パットは素早く身を屈めると、足下の小箱を拾い上げた。その蓋をしっかりと閉める。
「あのね。教えてあげる。この箱は開いてちゃいけないんだって」得意げに言う。「お婆ちゃんがそう言っていたんだよ」
「召喚した魔神をこれに閉じこめるつもりだったのか?」
 疑惑の表情でザニンガムは言った。封印のルーン文字一つ刻んでいないただの小箱だ。こんな華奢なものに邪神を納めれば、その場で箱は破壊され、召喚者は殺されてしまう。
 騙されるものか。間違った証拠品を持ち帰れば、ザニンガムの魔法の知識そのものが疑われてしまう。
 さて、どうする? ザニンガムは心の中でつぶやいた。この少女も、壁に押しつけておくべきだろうか?
「魔神っていったい何のことだ?」ファガスは不満をもらした。
「壁に手をつけろと言っただろ」ザニンガムは死の指輪を向けた。
「時間だ」壁に手をつけながら、ファガスがつぶやいた。
「森番のフェラリオはどこだ?」ひそひそとラングは言った。
「駄目だ。今夜は暇を取って、家の中に閉じこもっている。野犬にお尻を噛まれたのが、トラウマになったみたいだ」ファガスは説明した。
「喋るなと言っただろ!」ザニンガムは怒鳴った。
 奇妙だ。何かがおかしい。何かおれの知らないことが、どこかで進行している。そんな気がする。ザニンガムのうなじが総毛立った。
 ここにいるのは、巨人一人、小人一人、人間の執事が一人、これも人間の魔術師の女弟子が一人。それから小箱を後生大事に胸に抱えこんでいる少女が一人。それで全部だ。全員壁に手をついて立っている。
 どこがおかしい?
 どこに危険がある?
「何も起きない?」ラングが言った。
「喋るなと言ったはずだ」ザニンガムは死の指輪をラングに向けた。
 あ、とパットが小さく叫んだ。
「金の月」そう続けた。
 ラングが首をめぐらした。ファガスも。ベスも。執事のバイスターまで。そして全員が見た。
 金色の月を。月が金色に染まって行くのを。
 信じられない速さで、月の表面が金色の輝きに覆われた。それからその金色は月から吹きこぼれ始めた。それと同時に、月の表面の光が徐々に弱ってゆく。
 ザニンガムだけが、その言葉に惑わされなかった。背後の夜空で進行している異常に一人だけ気がつかない。別のことに意識が集中しているためだ。
 冷たい決意がその瞳に宿っている。
 裁判に必要なのはラングとファガス。すでに証拠が集まったいま、その他の人間は不要どころか、邪魔な存在だ。これがすんだら、あの狼男の居場所も突き止めて、ひそかに始末をしなくてはならない。
 この厳正なるザニンガムに牙を剥いた者がどうなるか、たっぷりと思い知らせるのだ。
「喋るなと言った。動くなと言った。おれは確かにそう言った」
 絞り出すようにして、宣言した。
「何かの仕掛けをしているな。お前たち。調査局の権限により、これから即時逮捕を行う。魔術による抵抗を排除するために、しばらくの間、気絶してもらう」
 魔法衝撃の指輪に触れ、出力を最大に設定する。このレベルでは指輪の力は数発で使い尽くされてしまう。しかしそこから放射される衝撃は、たとえ相手が巨人族でも、気絶どころか死んでしまうほどのレベルだ。後に残るのは中身が叩き潰された生物の皮だけになるだろう。
 逮捕の際の避けがたい事故による死亡。そう判定されるだろう。人権組合の連中は騒ぐかもしれないが、証明はできないはずだ。二級魔術師の死ぐらいでは、裁判で高価なトランス審判師が使われることもまずありえない。真実はすべて闇の中だ。
 己の瞳から殺意が吹き出すのを感じて、ザニンガムは目を伏せた。
「上を見てみろ。ザニンガム。月だ」ラングは静かにそう言った。
 世界が滅びかけているこの瞬間、ザニンガムのしていることは空虚な行為そのものであった。人種差別を元とした殺人。それを理解していないのは、ミッドガルド界でもただ一人、ザニンガムのみ。
「その手には乗らんぞ。おれはお前たちから目を放さない。さあ、ラング、貴様から寝てもらおう」
 ザニンガムは指輪の狙いをつけた。
 最初に動いたのはベスだ。壁に当てた手で反動をつけると背後に回転した。
 ザニンガムの指輪をつけた手が動き、ベスを捉えた。
 ザニンガムは人を殺すのにためらいがない。指輪の起動線を親指の爪で押しこむ。鋭い槍となって放射された衝撃波が白い水蒸気の尾を引いて空中に伸びる。
 ベスの体が横に流れ、衝撃線はその残像を切り裂いた。
 それが命中した森の一部が、無音の爆発の中で砕かれた大木の破片を宙に吹き上げる。
 誰もその光景は見ていなかった。ベスとザニンガムの戦いから目をそらすことができない。
 突き出されたザニンガムの腕の下を、ベスの手が突き上げる。指輪の照準が上を向いた。一連の流れるような動きで、ベスのもう一方の手がザニンガムの胸に打ちこまれた。
 ザニンガムの体に張られた魔法の防御場が反応し、襲撃者であるベスの体を弾き飛ばす。激しく地面に叩きつけられて、ベスは気絶した。
「無駄だ!」
 動きかけたラングに指輪をつきつけて、ザニンガムは怒鳴った。
「魔術師調査局を甘くみては困るな。素手でこのわたしに勝てると、本気で思っているのか?」
 倒れたままのベスを見てあわてるラングの様子から、ザニンガムはふとあることに気がついた。そうだ。そうにちがいない。いま自分が見たラングの表情から、そのことを確信した。
 ザニンガムの天下一品の石頭の中で、思考がめまぐるしく動く。
 今回の事件のほとんどはファガスを中心に起こっている。だから確実にラングを殺すためには、いま、ここで射殺しておくのが一番いい。
 しかし、ザニンガム自身が呼んだ調査員がすでに近くにまで来ているだろうから、ここで彼が無抵抗の者を射殺する現場は見られたくない。
 ということは、つまりラングが無抵抗でなければいいのだ。
 ザニンガムは倒れたままのベスに、もう一方の手にはめられた指輪を向けた。
「さて、この女性の行為は、魔術公務執行妨害に相当する。それも逮捕宣言を行った後の調査員に対する暴行だ」
 轟音が轟いた。森に向けて放たれた衝撃波の結果が、今頃届いたのだ。
 びくりとラングの首が動いた。それがベスに向けての指輪の発射音ではないことに気がついて、微かな安堵の色が浮かぶ。やはり、そうだ。ザニンガムは心の中で頷いた。
「もちろん、彼女を射殺することも、いまのわたしには許されている。そうして欲しいかね? ラング」
 瞬かぬ冷たい目で、ザニンガムは言った。
「止めてくれ。彼女には罪はない」ラングは叫んだ。
「いや。罪はあるさ」ザニンガムは冷たい声で宣言した。「巨人族と寝るような女は死んで当然さ」
 ザニンガムはベスに向けた手を緊張させた。親指を発射の位置に持っていく。
 巨体に似合わずラングの動きは素早かった。巨大な拳が自分に向かって来るのを見て、ザニンガムは会心の笑みを浮かべた。
 ザニンガムの魔法防御場が、ラングの巨大な拳の衝撃をすべて吸収する。重要人物の護衛に使う種類の、携帯用としては最強の防御場だ。それが誰であろうとも、ザニンガムの体には指一本触れることさえできはしない。
「抵抗したな。ラング」ザニンガムは言った。
 その手が上がり、ラングの顔に指輪の照準をぴたりとつける。
 これでミッドガルド界から巨人族が一人減る。今日は最高の日だ。ザニンガムはつぶやいた。
 それから、指輪の魔法を発動した。
 何も起きなかった。
 故障か? 馬鹿な。魔術師ギルド支給の最高級品なのに。
 ザニンガムの頬を、何かがかすめた。それは地面で弾かれて金属音をたてる。
 金色の輝き、潰れた円。ようやく、意識がそれを正しく認識した。金の指輪?
 どうして空から?
 いや、これこそ、ごまかしだ。ザニンガムはそう考えた。こうしてこちらの注意をそらしたすきに何かをするつもりなのだ。
 それからザニンガムは驚きに身を堅くした。横の空中に浮かんでいたはずの、光輝く魔法の塔が消え去ってしまっている。
「ラング! ファガス! 貴様たちいったい何をした!」
 問うまでもなかった。何かとんでもないことをしたのだ。この小人と巨人のコンビは。
 ラングが前に出ると、ベスを地面から抱き起こした。驚くべき優しさで彼女をバイスターに渡すと、怒りの目を燃やしてザニンガムへと近づいて来る。
 ラングの一歩ごとに、地面が揺れた。
 もうぐずぐずとはしていられない。何が起こるにしても、取合えずはこの連中を皆殺しにしておくのだ。ザニンガムはそう結論づけると、別の指輪を操作した。
 家でも叩き潰せるはずの衝撃波が、指輪から吹き出るのをひたすら待つ。
 何も起きない?
 ラングが近づいて来る。
 もう一度、指輪を押した。続いてもう一度。
 また故障か?
 それがザニンガムには信じられなかった。
 市場で売られているような、やわな護身用の魔法製品ではないのだ。たとえ邪神召喚のあおりを受けたとしても、軍事用に作られた魔法の指輪が故障することなんてありえない。
 ラングが腕を上げた。その服が音を立てて裂け、太い腕の上に鋼鉄のような筋肉が盛り上がるのが見えた。伝説に歌われる雷神トールを思わせる、その姿。
 大丈夫。まだ魔法の防御場がある。それがラングの拳を止めることは実証済みだ。ザニンガムはそう自分に唱えて、無理に心を落ち着かせた。
 焦っては駄目だ。どれか一つでも、正常に動く武器があるはずだ。
 もう一度。指輪を押す。駄目だ。こんなときに。ザニンガムは舌打ちをした。炎の指輪に切り替えてみる。これも駄目。雷撃の指輪、これも駄目。
「糞!」ザニンガムは叫んだ。「これもお前たちの仕業か!」
 その瞬間、ラングの巨大な拳が目の前に迫って来るのが見えた。
 衝撃。そして、暗闇。
 その漆黒の中を、星が勢いよく飛び回っていた。


 ザニンガムの体が森の中へと吹き飛ぶのを見送ってから、ファガスは空を見上げた。小さな無数の流星のきらめきが、夜空全体を覆っている。
 その正体を、ファガスはよく知っていた。
 金色の満月も、いまではその色を失って、黒一色へと変わって行く。魔力による月の発光が、貪欲なる金の指輪ドラウプニルによって食い尽くされ、消え去って行くのだ。
「世界が終わる。すべての魔法が消えて行く」
 夜の中に立ち上がったラングは宣言した。
 そして世界は、漆黒の闇に包まれた。