馬鹿話短編集銘板

雨など降るでないぞよ

 空は曇り始めている。元々濃くは無い青空の青が薄れ、白から灰色へと変ずる雲が次第に集まり始め、大気の中に湿り気の予兆が混ざる。赤茶けて乾いた大地がこれから起こることを歓迎するかのように秘かな期待を込めて待ち望む。
 ここに最も長くいる者がじっと空を見つめて、雨が降るぞ、と一言呟く。言われなくても誰もが判っていることだが、言葉にされれば一段と恐れが強くなる。

 その言葉を聞いた俺たちは、皆で一斉に唱和する。

 雨など降るで無いぞよ。
 雨など降るで無いぞよ。

 祈りは空しい。雨は降るだろう。だが、それでも祈らずにはいられない。少しでも雨の到来を遅らせるために。

 白髪を振り乱した老婆が、己の過去を話しだす。
 そうすれば、天気が崩れるのを止めることができるかのように。


 ・・そりゃ、あたしだって最初からこんな老婆だったわけじゃないさ。

 これでも若い頃は店一番の売れっ子。毎晩のように殿方が愛を囁きに来たものさ。もちろん懐にはたんまりとお金をもってさ。帰るときは綺麗さっぱりと軽い足取りでお帰りねがい、一人になった気楽さで、稼いだばかりのお金と一緒に優雅に朝寝をしたものさ。
 お金と恋を間に挟んで、男と女の騙し騙されの化かしあい。そんなことの繰返しさ。
 ああ、よかったねえ。あの頃は。外へ出るときはお付きの女の子が傘を差してくれたから、雨に濡れる心配もなかったし。
 お店に取っちゃあたしは大事な金の卵。それはもう大事にされたものさ。
 稼いだお金は何だかんだ言ってお店に取られてしまったけどねえ。でもそんなことは大したことじゃない。すぐにまた男たちが、お金を持って来るからね。
 華やかな着物に、綺麗な髪飾り。美しくお化粧をして、行列を引き連れて界隈を歩いたものさ。見物の男どもはみなあたしに見惚れて、薄汚れた女房どもがその横で嫉妬の目で睨んでいたよ。
 ああ、懐かしいねえ。それはもう豪華な輝きそのものさ。あたしを真ん中に据えて、金色の光が周りに降り注いでいたものさ。

 でもそんな暮らしも、歳を取ったらすべて終わり。

 顔の皺が一つ増えるたびに、寄せてくる男の質もだんだんと落ちて来て、最後は人生に絶望したような輩ばかり。お金もだんだん減って来て、お店の連中の扱いもひどくなる。お付きの女の子さえいなくなり、一人で薄汚れた布団の上で泣くことが増えて来たのさ。
 そうなればこちらも覚悟はできた。まだ色香が少しでも残っている内に、出来る限りのことをする。ひどい騙し方をして、首を括らせた男は数知れず。
 でも、あたしは後悔しなかったし、止めなかった。止めたらおマンマの食い上げだからねえ。
 ついにこんな皺まみれの婆になって、今度は若い女を操っての悪党暮らし。それも悪運尽きてもみれば、とうとうこの場所に流れ着いたとこういうわけさ。
 わかるだろう? 悪いのはあたしじゃない。そういう世間の仕組みなのさ。


 老婆が語り終える。集まり来る雲はますます厚くなる。周囲は暗くなり、闇の色が濃くなる。渦を巻く模様が雲の中に現れ、これから始まる激しい雨を予感させる。荒野の中にはどこにも雨を避けて隠れる場所は無い。

 俺たちは必死の形相で唱和した。
 雨など降るで無いぞよ。
 雨など降るで無いぞよ。

 次の男が慌てて話しだす。喋っている間は時が止まることを期待するかのように。


 ・・私は詐欺師だ。いや、詐欺師だった。

 大事なのは微笑を絶やさずに、相手の言うことを真剣に聞くことです。そうしてしばらく話をしていれば、相手はこちらを信用してくれます。
 信用する根拠なんて、何にも無いのにですよ。
 顔も大事です。髪はきちんと梳いて、見出しなりもきちんとすること。スーツはいつも手放せない。それらが信用を作ってくれます。
 信用する根拠なんて、何にも無いのにですよ。
 自分は賢いと思っている連中が、どれほど間抜けなのか、小さいときに気付きました。だから、この職業は私の天職だと思ったんです。実際、天職だったわけですけど。
 最初は小さな詐欺グループに入れて貰って、それから仕事に慣れると自分のグループを作りました。いつも居るのが三人ほど。後は必要に応じて新しい顔を入れて、それから彼らを放り出しました。警察への囮と生贄としてね。
 それぐらいがいいんです。あまり人が多いと分け前が減るし、警察にばれやすくなります。何より逆にこちらが裏切られるのが怖いですから。
 随分と多くの奴らを引っ掛けたものです。その中には怖いおあにいさん達もいましたけどね。意外と騙しやすいんですよ。ああいった人々はですね。
 大きな仕事もしました。会社相手の何十億円という詐欺を。偽の会社に偽の名刺、偽の事務所に偽の証明書。相手に見せる笑顔以外は全部偽物。でもそれで通るんです。金を掴むとすぐに名前も顔も変えて消えましたけど。使い捨ての連中はああいうとき便利ですね。主犯にされてしまった人は最後まで知らないと泣き喚いていましたけど。

 いつものことです。

 ああ、ええ、うん。女性は騙しませんでした。結婚詐欺は大して儲けになりませんし、何よりも手間がかかるんです。中にはやたらに勘の鋭い人もいますしね。よほどの女好きじゃないと、あれはできません。
 手にした金は派手に使いましたが、それでも金を手にいれるのが目的ではありませんでした。騙した相手の横で、整形した別人のまま、騙した相手の金で飲む酒と来たら、堪えられない旨さでしたね。あんたどこかで会ったよなあという相手に、さあととぼけるときの快感ときたら、これはもう堪らないものです。

 今はここに来てしまって、騙す相手もいないけど、それでもやはり詐欺師は私の天職だと思っていますよ。


 詐欺師が語り終えると、暗雲渦巻く空のどこかで雷鳴がごろんごろんと鳴った。周囲が一層暗くなり、冷たい風が吹き付ける。これから始まることの予感に、皆の体が震えるのが感じ取れた。もはや残された時間は少ない。

 俺たちは必死で唱和した。
 雨など降るで無いぞよ。
 雨など降るで無いぞよ。


 第三の女が話し始める。やつれた色合いの線の細い女性だ。

 ・・・あたしが悪いなんていわせないよ。悪いのは旦那の奴だ。

 何が悪いっていつものやつさ。女遊びにギャンブル狂い、お酒を飲んでは暴れて、それで殴る相手はいつもあたし。
 出会った最初の頃はそれでも少しは優しかったんだよ。愛に満ちているなんて言わないけど。でもある日あたしを何かの拍子に叩いて、それで逃げないって判ると本性を現した。
 この女の細腕でようやく稼いだお金を、給料が出たその日の内に待ち伏せて、毟り取るように持って行く。あたしがこんな面相じゃなければ、喜んで風俗に沈めてくれたろうさ。
 それでもあたしは我慢した。故郷の親に泣きついて、同情してくれた周囲の人たちに泣きついて、何とか借りたお金まで旦那にあげた。
 派手な化粧の女を連れ帰って来て、あたしの前でセックスしたときもじっと我慢した。
 あたしにはあの人しかなかったんだ。いつかこういったことが総て終わって、もう一度優しく抱きしめてもらえると、そう信じていたんだ。

 でもある日、いつものようにあいつが酔って面白半分にあたしを殴っているときに、何かがあたしの中で切れた。あたしの中に居たあいつが、好きな人からただの他人へと変わっていくのが見えたんだ。
 手にした果物ナイフがあいつに刺さったときに、人間って何てたくさんの血を流すんだろうと思った。でもその血はあたしの手の傷から流れているってことに気付いて、自分の勘違いに笑いが止まらなかった。
 旦那は自分の胸に刺さったナイフを見つめながら、子供のように泣いていたよ。本当にあのロクデナシと来たら、女は殴るくせに度胸は空っぽなんだから。あたしは改めて台所から包丁を持って来ると、あいつの背中を何度も刺してやった。今度はちゃんと手にタオルを巻いて、自分の指が切れないようにしてね。
 何度も。
 何度も。
 何度も。
 気が付いたら、警官があたしを取り巻いていて、あたしは包丁を振り回した。
 それからマンションの窓から飛び降りたの。地面は遠かったけど、それほど待たされることはなかった。


 ごうごうと風が吼えた。黒き雲の一部が盛り上がり、真っ赤な目を持った鬼の顔に変ずる。闇と化した光景の中で、黒に黒を持って刻んだ存在の、たった一つの意思を示す燃える石炭の瞳。

 罰を与える者の目だ。
 怒りを湛える者の目だ。
 罪を裁く者の目だ。

 俺たちは必死で唱和した。懺悔の時は終わった。今はただ、それが受け入れられることを祈るのみ。

 雨など降るで無いぞよ。
 雨など降るで無いぞよ。

 やがて、血の色をした雨が酸の煙を上げながら降り始め、それを全身に浴びた俺たちは悲鳴を上げて逃げ惑った。