馬鹿話短編集銘板

俺の最初の殺人は

 うちの課のコーヒーメーカーは相当ガタが来ている。こいつは随分昔にある事件を解決した際に、感激した被害者の家族から寄付されたものだ。まあそれは裏を返せば警察が事件を解決するなんて誰も予想していなかったことを意味しているのだが。
 コーヒーメーカーの中のフィルタの周りに長い間の澱が溜まってしまい、最初の頃のようなフレッシュな味のコーヒーは作れなくなっている。何人もが試して見たがそれは誰にも掃除できなかった。それでも何とか飲める程度のコーヒーを作ることができるので贅沢を言ってはいられない。
 バンダー警部補はカップを持つと、少しだけその苦い液体を啜った。ブラックが好みというわけではない。ただ単に砂糖を入れるという一動作が面倒なのだ。

「警部補。実は変な市民が来ているのですが」
 係の者が済まなそうに報告した。
「どこがどう変なんだ」
 聞き返しながら手にしたカップを置く。これは無理して飲むような代物じゃない。
「それが。生活安全課から回されてきたんです。話の内容があまりにも変で。もしかしたら殺人課の仕事ではないかと但し書きがついています」
 明確な事件ならば但し書きなんかつけない。ということはつまり適当な理由をつけてたらい回しされて来たということだ。
 それほど暇というわけではなかったが、ちょうど時間が空いていたのでバンダー警部補はその仕事を受け持つことにした。
 最近の街は少しだけ平和なのだ。

 取調室の椅子に座ったその男にはどこも奇妙なところは無かった。それでも顔と体の特徴は頭の中にメモをした。これはバンダー警部補のいつもの習慣だ。中年男性、背の高さは標準、肉付きも標準、顔はどこにでも居そうな顔だが、左眉の上に大きなホクロがある。
 警部補の顔を見ると男は喚きだした。
「たらい回しは止めてくれ。俺には時間が無いんだ。早く俺の殺人を告白させてくれ」
 これは狂人か、それとも本当の殺人の自白なのか。とにかく、とバンダー警部補は思った。話を聞いてみるか。
 男の向いの椅子に座る。警戒は怠らない。銃は持っていないが、男一人ぐらい制圧するのは簡単だ。相手が危険人物と分かっていれば取り調べは必ず二人で行うが、まあこの場合は大丈夫だろう。
「いいぞ。話してくれ」
 バンダー警部補が促すと男は話始めた。



 俺の最初の殺人は街でチンピラに脅されたきだ。その強盗に銃で脅されて後ろを向かされ、財布をまさぐられ、それから後頭部を殴られたその瞬間に見えたんだ。

 おっと話を遮らないでくれ。全部話すから。
 見えたのは何と言うか、白昼夢というやつだ。そこにない別の光景がいま見ている光景に重なって見えた。それがどこかはすぐに分かった。俺が連れ込まれたこの路地の入口だ。そこでそのチンピラが射殺されるのが見えたんだ。チンピラは何かを叫んでいた。それからその胸を銃弾が貫くのが見えた。弾丸そのものは見えなかったが、注意していると弾が背中から飛び出したときの血しぶきだけはちゃんと見えるんだな。あれは。
 そこで見えていた二重の光景は消えた。チンピラは俺の財布を取ると、地面に転がる俺を放置して逃げだした。
 一瞬気を失いかけたが何とか耐えた。地面に這いつくばりながら路地の入口を見ると、そこではすでに一度見た光景が繰り返されていた。
 銃声が何回か。男が驚いたように立ち止まり、そして崩れ落ちる。
 近くをたまたま通りかかった警官が何が起きているのかに気づき、その強盗を射殺したんだ。手に銃を持ったままだったからな。

 これが俺の最初の殺人だ。



「ちょっと待て」バンダー警部補は口を挟んだ。
「百歩譲ってお前にその不思議な能力があるにしても、どうしてそのチンピラの死がお前の殺人になるんだ?」
「俺は死神だ。俺が関わらなければあの愚か者も死ななかったに違いない。あのとき俺があの場所を通らなければ。それとも銃を持つあいつに注意をして、銃を隠すようにさせていれば、あいつは死ななかっただろう」
 ふうん。バンダー警部補は頷いた。こういう考え方をする人間にはときたま出会う。根が善良と言うか、それともどこか抜けていると評すべきなのか。
「俺の力が働く条件は二つ。相手の体のどこかに直接触れること。触れ方はどうでもいい。最初の強盗は俺の頭を殴ったわけだが、そういう触れ方でもいいんだ。
 もう一つの条件は相手が近いうちに死ぬ運命にあること。そうだな。だいたい一日以内にだ。
 どうだいひでえ話だろ?」
「まったくだな。どうせ未来が見えるなら宝くじの当たり番号でも見えればいいのに」
「俺もそう思うよ」
 男は話を続けた。



 俺の次の殺人はこれも見知らぬ男だ。そのとき俺はアイスクリームの販売のバイトをやっていた。ほら公園横なんかの屋台でアイスクリームを売るヤツだ。
 コーンに載せたアイスクリームをお客さんに渡すとき、うっかりと手が触れちまってね、その時に見えたんだ。道路の曲がり角から出て来た車がそのお客さんを撥ねる所をな。
 そこで俺はそのお客さんを呼び止めた。アナタはうちの千人目のお客です。お祝いにもう一つアイスをあげますってな。我ながら苦しい言い訳だったが、その客は喜んで受け取ったよ。俺はわざとぐずぐずして、客を撥ねるはずだった車が通り過ぎるまで引き伸ばした。
 うれしそうにその客は両手にアイスを持ったまま歩き出し、そして別の車に跳ね飛ばされた。
 そうだよ。俺が見た未来は変えることができる。だが大概の場合は、別の形で死の予言は実現する。



「それは辛いな」バンダー警部補は眉を潜めながら言った。
 男は頷いた。バンダー警部補が何を考えているのかには気づいていない。
「あんたが想像する以上に辛い。しかもその死の運命が絶対に止められないならまだ救いがある。問題はたまに救えることがあるということだ。ごく稀にだが」



 だから俺は何とかそれらを止めようとした。そのために教会のボランティアに参加したんだ。熱心な信徒の振りをして協力を申しでて色んな手伝いをしたんだ。
 偶然を装って、助けを求める者たちの手に触れた。
 ほとんどの人は大丈夫だったが、死の運命を持った者も少しはいた。ああいう場所にはそういう運命を持つ者が集まるんだろうな。
 そうやって多くの人の運命を見ている内に俺の力は強くなった。それまでは死の瞬間しか見えなかったものが、その前後まで見えるようになった。死が一日後だった場合には、手が触れた時点からの一日が丸々見えるようになった。
 それがますます俺を苦しめた。見知らぬ人間の運命の死ではなく、一日でも一緒に過ごした人間の運命の死に昇格してしまったからだ。これはきつい。心の奥底にずんと来る。
 俺も努力はしたんだよ。借金苦で死ぬはずの者には乏しい貯金の中から金を出すこともした。夫に殴り殺される運命にある女性には、相談に乗り、悲惨な結婚生活からの脱出の手助けもした。だが大概の場合は皆死んでしまった。それぐらい死の運命とは強いものなんだ。

 終いには俺は何もしなくなった。一つの結論に達したんだ。
 人が死ぬのは定めであり、そもそもの原因は人が産まれて来たからなのだと。



 バンダー警部補は冷えたコーヒーの残りを飲み干した。何だかこの男の話を聞いていると喉が渇いてくる。
 この男は狂っている。何かの妄想に取りつかれている。だが最初に思ったような凶暴性があるわけではない。ただ、自分で作り上げた心の内の罪悪感に苦しめられているだけなのだ。
 罪悪感。それこそが人生の鍵なのだ。
 だがこの問題の解決は自分の職業の範囲ではないし、いつまでも話を聞いていられるほど暇でもない。そろそろお引き取り願おう。我々警察官の職務は本物の犯罪を捜査し暴くことだ。想像上の犯罪は教会の縄張りだ。いや、精神医だな。カウンセリングでも受けたら多少はマシになるだろう。
 男の話が済んだらもう一度生活安全課に回そう。今度は精神病院への問い合わせも指示しよう。きっとこの男はどこかの病棟から逃げ出してきたに違いない。

 こほんと咳を一つしてからバンダー警部補は言葉を継いだ。
「とても信じられんな。君の言う事には何の証拠もない」
「証明ならできる。これからあなたに起こることを予言してあげよう」
「ほう?」バンダー警部補は眉を上げた。
「未来の予言はちょっと難しいんだ。予言を聞いた相手が未来を変えようとするからね。でも大筋は変えられない」
「分かった。では君から何を聞こうがその未来とやらを無理に変えようとはしないと約束しよう」
「言い争いをする気も言い訳をする気もない。手を出したまえ」
「こうかい?」
 バンダー警部補が恐る恐る差し出した手を男は取った。男はしばらく目を瞑っていたがやがて言った。
「あんたはこれからコーヒーを入れに行く。だが年代物のコーヒーメーカーは故障するだろう」
「ほう? それなら簡単に証明できるぞ」
 バンダー警部補は部屋を出ると、コーヒーメーカーに向かった。スイッチを入れてコーヒーが沸くのを待つ。コーヒーメーカーから煙が上がり、小さな破裂音と共にスイッチが切れた。
「見事にご臨終か」
 そう言いながらバンダー警部補は考えた。これはどういうことだ。コーヒーメーカーの故障は仕込むことができる。だがあいつはここに来てから取調室に入るまで俺が監視していた。だから細工する時間はない。となると仕掛けを組み込むのはもっと前、あるいはこの課内にあいつと組んだ者がいるかだ。
 だが一体何のため?

 取調室に戻ってきたバンダー警部補を冷たい目でみて、男は後を続けた。
「もう少し経つとここの課の女性職員がこの部屋に来る。そして書類をあなたに見せて署名を求める」
 バンダー警部補は待った。今になってあのまずいコーヒーが無性に飲みたくなるとは奇妙なことだった。
 やがて取調室の扉が開くと課の女性警官が一人入ってきた。
「警部補。邪魔して済みません。この書類に署名が必要なんです」
 署名をしながら、厄介なことになったとバンダー警部補は考えた。これでこの署員が作戦に加担している可能性が生じたことになる。この男の目的が何であれ、仕掛けがあまりにも大がかりだ。となると絶対にこの男を解放するわけにはいかない。何としてもその背後にあるものの情報を引き出さねば。
 いや、もしかしたらこれは職員たち総出で俺を担ぐつもりで仕掛けたドッキリ番組ではないのか。だとしたら物凄く質が悪い。そう、俺が激怒するほどに。

 一応最後までこの演技に付き合ってやろうじゃないか。それからすべてを逆にあざ笑ってやろう。

 バンダー警部補は椅子に座り直した。それから恐るべき忍耐力で男がすべてを話し終えるまで待った。その間に、十七人の人間が男の話の中で死んだ。
 最後の殺人の告白が終わると、男の肩から力が抜けた。すべてをやりおおせたというオーラがその体から出ている。
 これは果たして演技なのだろうか?
 もしかしたら、男の言うことは本当だったのだろうか?
 バンダー警部補は体を前に乗り出した。
「それで一つ聞きたいのだが、あんたはどうしてここに来たんだ。殺人の告白は分かる。だがあんたも常識人のように見える。この告白が殺人の証拠として取り上げられることもなければ、警察が捜査に動くこともないことは分かっているだろう」
 バンダー警部補は厳しい声で問い詰めた。それを受けて男は本当にすまなそうにした。
「ああ、そういうつもりじゃなかったんだ。ただ死ぬ前に全ての罪の懺悔がしたかっただけなんだ。それなら教会に行くのが筋なのは分かっているし、実際に行ってみたんだが、話が長いと神父に追い出されたんだ。他の懺悔の人が来るから邪魔だってね。ここなら最後まで聞いてくれると思ってな。それでここに来たんだ」
 男は肩をすくめてみせた。
「予想通りだったわけだが。本当にあんたには感謝しているよ」
「死ぬ前とは聞き捨てならんな。まさかここで自殺でもおっぱじめるつもりじゃないだろうな」
「まさかね。自殺は神様に禁止されている」
「ますますわからん」
「警部補。アンタ、俺の話を聞いていただろう。俺が未来を見ることができるのはこれから死ぬ運命がある人間だけ。それなのにどうしてさっきアンタの未来を見ることができたのか理解していないのか」
「俺がじきに死ぬと言っているのか」
 署内に爆弾を仕掛けたと暗に示しているのか。この男は。バンダー警部補は身構えた。
「あんただけじゃないさ。俺も死ぬ。この署にいる人間も死ぬ。この街にいる全員が死ぬ。もしかしたらこの国に居る全員が死ぬ」
「何を言っている」
「核戦争だよ。今朝、顔を洗うときに自分に触れて分かった。じきにここに核ミサイルが落ちる。だが俺はすべての懺悔を終えた。きっと天国に行けるだろう」

 男は自分の胸に手を当て、目を瞑った。再び目を開けると確信を込めた口調で言った。
「うん。間違いない」