古縁流始末記銘板

深き欲の行き着く果て

1)

 庄内村の佐江蔵はある日里山にキノコを採りに登り、つい踏み入らずの山へと足を踏み入れてしまった。

 踏み入らずの山とは禁足地である。入れば戻っては来れぬと言い伝えられている。
 本来なら臆病な佐江蔵はそこに踏み込むなどは決してしない。だが、目当てにしていたキノコの群生地がどこも不作だったのが悪かった。背負い駕籠の半分も埋まっていないのでは家に帰れない。
 このまま帰れば入り婿先の嫁と姑に何と言われるか。それが恐ろしかった。
 外から見ただけでも禁足地の山は豊かな植生を誇っており、キノコどころか山菜もまた豊富に生えているのが分かる。誰も採ろうとしない宝物が目の前にずらりと並んでいるようなものだ。
 ついつい、欲に負けてしまった。
 踏み入らずの山の境界を示す地蔵菩薩像を横目に道を踏み出す。
 ここで普段なら山を密かに管理している修験者たちが止めるものである。ところがその時ばかりは修験者はいなかったようで、警告の小石が上から降ってくることもなかった。
 踏み入る先には豊かなキノコの群生がある。それも珍しくて旨い種類ばかりである。これはお金が地面に落ちているようなものだった。夢中になって採っている内に、思わぬ山奥まで入ってしまった。
 気づくと帰り道が分からない。困って辺りを見回すと、どうやら人のつけたものと思われる道らしきものが見つかった。
 山の道には人が作った道と獣が作った道がある。獣道は歩くと顔に木々の枝がぶつかるのですぐ分かる。この道は普通に歩けたので人の道だ。どうして踏み入らずの山に人道が通っているのかまでは、佐江蔵は考えが及ばなかった。
 それを辿っていくとやがて木々の間の開けた場所に出た。

 そこには山の中であるのにも関わらず大きな屋敷があった。豪華で立派な屋敷だ。
 太くて立派な柱が大きな屋根を支えている。壁は作りたてのように真っ白で、どこにも埃一つ付いていない。門の脇には立派な松が植えられていて、素晴らしい枝ぶりを見せている。金で縁取りされた鬼瓦が屋根の上で睨みを利かせているのが目立った。
 だがその屋敷にはこれほどの大きさなのに人の気配がなかった。雨戸も障子も開いていて座敷は外に解放されていたし、台所の竈には熾火がついており鍋には湯が沸いていた。それにも関わらず誰もいないのだ。
 佐江蔵は大きな声でおらばってみたが、やはり返事がない。これはさても奇妙なことよと勝手に座敷に上がって見た。襖を開いて奥に進んでみたが立派な調度が並ぶ部屋が続くばかりでやはり誰もいない。ただ誰かが今そこにいたかのような息遣いが残っているだけであった。
 その内に佐江蔵は薄気味悪くなってしまった。あまりにもおかしいことだらけだ。こんな所に長居をしてはいけない。
 さっさと帰ろうとしていてふと思った。何か話の証拠となるものを持って帰ろうと。
 流石に床の間に飾ってある高価そうな花瓶を持って帰るのは気が引けたので、台所に廻り、朱塗りの一合升を一つ持って帰った。
 来た道を逆に辿るとやがて見知った里山についてほどなく家へと帰りついた。



 異変はその後に起きた。
 女房に渡しておいた一合升に米が湧いたのだ。使っても使っても次の日の朝には米が一合升一杯に詰まっている。
 山の中で佐江蔵が不思議な宝物を手に入れたとの噂はすぐに広まった。村人全員が集まり協議した末に、宝物はすべて村のものであると決まった。そうして佐江蔵にその山の家の場所を喋らせようということになった。
 当然ながら佐江蔵は抵抗した。こっそり自分一人で通って他にも何か持って帰ろうと考えていたからだ。
 もちろん欲にかられた村人がそんなことを許すわけがない。佐江蔵を村八分にするとまで脅し、最後には拷問まがいのことをして、とうとう山の家の場所を聞き出してしまった。
 その日の内に、気の早い村の若い衆が連れだって山へと向かった。
 今度はどんなお宝を持って帰るだろうと残された村人は期待して待っていたが、その日は誰も戻って来なかった。
「これはさてはその山の家で歓待して貰ってご馳走でも食らっているんじゃないか」
 そんな都合の良い意見が出た。
 怪しいことが起きていると考える者も少しはいたが、欲深者の意見には敵わない。すぐに後追いの連中が選ばれた。
「先に出た奴らに負けてなるものか。ほれ、大八車を持っていけ」
「山の家の者が四の五の言ったらこの棒で殴ってしまえ」
「いいか、忘れるな。儲けは村の者全員で山分けだぞ」
 もはや歯止めが効かなかった。こうして新しく生まれた餓鬼の群れは山へと向かった。
 佐江蔵はすでに宝を貰ったとして山に入ることは許されず、家に留まることになった。

 そして誰も帰っては来なかった。
 佐江蔵の一合升もその日を境に米を湧き出すこともなくなってしまった。



 古縁流第二十八代伝承者本間宗一郎師匠の家の上がり框に背の高い男の影が落ちた。
「邪魔するぞ」
 修験者の相異坊である。いつもの山伏の格好をしている。背が高く顔が長い男だ。見た目通りに異相なので相異坊と通り名がついている。背の高さに比して横幅が無いので痩せているように見えるが、修験者の頭だけあって力は人一倍ある。験力も相当なものがあり、修験者一派の頭をやっている。
 囲炉裏の前に座った師匠がちらりと目をやった。
「手ぶらか。他人の家を訪ねるなら菓子の一つぐらい持って来い」
「そんな気遣いは無用に願う」相異坊が答える。
「それは主が言うべき言葉ではないか。客が言ってどうする」と師匠が呆れた。
「せっかくこの相異坊が訪ねて来てやったのだから、礼を言うは本間殿、そちらであろう」
 そう言い放ち、ふん、どうだ、という顔を相異坊はする。
「帰れ」
 師匠は相異坊に向けて吐き捨てた。
「いや、帰らん」
 相異坊は師匠の向いにどっかと座りこむ。囲炉裏に掛かった鍋の中では何かが煮えている。相異坊が杓子を使って鍋を掻きまわすと旨そうな匂いがぐっと強くなった。
 ぐつぐつに煮えた何かを相異坊は指でひょいと摘むと口に放り込む。こやつは赤く燃える石炭ですら指で摘まむからなあ、と師匠が独り言ちる。
「つまみはこれで良いか。さて、酒はないか」と相異坊が尋ねる。
「儂は酒を飲まぬ」と師匠が答える。
「そうか、戸棚か」
 そう言い放つと相異坊が立ち上がり、薬などを入れてある箪笥の戸棚を開くと、中から酒が入った瓢箪を取り出した。
「何故分かる?」ぶすっとした顔で師匠が呟く。
「それがそれ、修行でつけた験力というものよ」
「抜かせ。大方、酒の匂いでも嗅ぎつけたのであろうよ」
「よくわかったな」
 相異坊はついでに持って来た椀を師匠へと差し出す。師匠はぶすっとした顔で鍋の中身を椀に入れてやった。もっとも師匠は別に相異坊を嫌っているわけではない。これが二人のいつもの接し方である。
 相異坊はぐい呑みに酒を並々と注ぐと一息に飲み干した。
「もっとちびちび飲め。儂の酒だ」師匠が文句を言う。
「酒を飲まぬのにどうして家に酒を置いておる?」
「不意の来客に備えてだ」
「この家を訪れるのはワシぐらいのものだろう。ということはお主はワシのために酒を用意したことになる」
「料理用の酒だよ」
「ぬかせ。こんな良い酒を料理に使うものか」
 無言で師匠は鍋の中を掻きまわした。
「一杯飲んだら帰れ。どうせまた何か厄介事を持って来たのだろう」
「そう言うな。これが飲まずにおられるか」
 あくまでも相異坊はその厄介事を話すつもりだ。
「また何か騒ぎか。賭場でも荒らしたか、それも配下の修験者が女でも孕ませたか」
 どちらも以前にあった話だ。そのたびに地元の親分連中と大立ち回りになったり、師匠の家に目を赤く腫らした女が居ついたりと大変なことになっている。
「どちらも違う」次の一杯を注ぎながら相異坊は言った。「迷い家だ」
「迷い家?」
「うちの衆の管轄の村でな、まあ神隠しがあった。それも村の半分が一気にな。どうもそれが迷い家に関わるらしい」
 ほう、と師匠が息を漏らした。それから立ち上がると茶を入れて来た。
 相異坊の話を聞く気になったという印だ。



 修験者たちは基本的には一人で修行するが、それでも所属する聖地というものを中心に集団を形成する。
 滝行一つ取っても一人でやると相当な頻度で死に至る。流木が流れてきて滝行の最中の修験者の頭を直撃するからだ。そのときは見張りが素早く滝から引き揚げてやらないと死んでしまう。
 それは千日修法でも同じで少しでも油断すると一人ではそのまま死ぬことも多い。だからこれらすべては集団で行うことが基本だ。お互いに見張りあって修行をするのだ。
 もちろんそのような集団には全体を管理する頭というものが自然に生まれるもので、相異坊もその一人だ。
 修験者の集団を統制し、はぐれ者は見定め、性根が良くないものは叩きだす。お山で採れる物を管理し、聖地で盗みを働く不埒ものはやはり半殺しにして叩き出す。
 これら修験者は常に山に居るわけではなく、たまに山を降りて町に出る。町で占い師、拝み屋、憑物落としなどの商売をやるのだ。自ずから、訪れる町や村にも修験者間の縄張りというものが生じる。
 その傘下の村の一つに庄内村というのがあった。その村人の一人が山の中で迷い家に遭い、昔話にあるように物を一つ持って帰った。それは米が湧き出る一合升で村中の評判になった。そしてその結果、村中総出でその迷い家を訪れることになった。

「で、その者たちが帰って来なかったと?」茶を啜りながら師匠が訊いた。
「やはり分かるか」
「分からいでか」
「それがなあ、それだけでは済まなかったのだ」
 手の中で瓢箪を振って残りの酒の量を確かめながら、相異坊は言った。
「話を聞いてワシはうちの者を送りこんだ。飾り紐のゲンと呼ばれる修験者だ」
「飾り紐?」
「ほら貝につける螺の緒だな。これを飾り紐にしているという変わり者よ。だが腕は確かでな。これを探索に送り込んだ」
「ふむ」
「だが、これも帰って来ない。そこで今度はワシの右腕である川上と言う男を送り込んだ」
「ほう」
「ヌシも顔だけは知っておろう。ワシには及ばぬがなかなかの腕前の男よ。だがこれも帰って来ぬ」
 今度は無言で師匠は茶をすする。
「こうなるともうワシが行くしかない。だがそれでも危ういのではないかとワシは思っている」
「それで儂に一緒に行けというのか」
 相異坊は頭を下げた。この男にしては珍しいことであった。
「頼む」
「あい、分かった」
 一言答えて師匠は立ち上がった。何だかんだと言って師匠は相異坊の困りごとを見過ごしたことは無い。
「待て、もう一杯飲んでから」相異坊が押しとどめる。
「抜かせ」
 師匠は相異坊の手から瓢箪を取り上げる。
「酒は体に毒ぞ」


2)

 山伏姿の顔の長い大男と、背中に自分の身長ほどの戦国大太刀を背負った細身の見すぼらしい男の取り合わせは好奇の目を引いた。
 関所では当然ながら怪しまれたが、師匠が黄金長者から貰った割符を見せると驚くほどに態度が変わり、敬礼を持って送り出される始末となった。黄金長者は各地の大名に多額の金を貸し付けしているので、こういった隠れた特権が認められているのだ。

 街道を辿りながら、適当に茶屋で茶を啜り酒をねだり握り飯を頬張りながら旅をする。
 泊まるのは相異坊がこういうときの常宿にしている木賃宿だ。宿代は安いが宿というよりは掘っ立て小屋に近い。食事は宿の亭主から買うこともできるが、大概の客は自分で作る。
 泊り客はすべて普通の宿には泊まれぬ訳ありの人間たちばかりだ。貧乏の底を這うもの、泥棒、詐欺師、裏街道で兇状持ち、病気持ちなどなど。
 木賃宿で提供されるすべてのものには高くはないが値段がついている。煮炊きのための薪にも金がいる。だから泊り客は見知らぬ者同士でも共同で炊事などをする。
 一応今回の仕事は依頼主の村から仕事料が出るが、それでも普通の村なのでそこまでの大金は払えない。そこに相異坊で三人目の出張なのだ。自ずから路銀は絞られることになる。
 相異坊はともかく、師匠が木賃宿に泊まるのは金が無いからではなくて、まともな宿に泊まることに拘らないためだ。この二人はいつも野辺に生きているので、どんな場所でも食う寝るには何の問題も無かった。
 師匠の手が閃いたと見れば、小さな手裏剣が今まさに飛び立たんとした鳥や兎を貫いている。手裏剣につけてある細い山蛾の糸を引けば、歩みを止めることなく獲物は師匠の手に収まっている。ちょっと脇道にそれたと思えば山菜や食べられる野草が師匠の懐に入っている。
 一方の相異坊は歩きながら枯れ木から枝を折り取って背負子へと括り付けている。
 宿についたときには一夜分の薪が溜まっているという寸法だ。

 実を言えば黄金長者の所の仕事で貰った小判が何枚か師匠の隠しに納めてあるが、それは黙っていた。そのことを知れば相異坊が酒を飲もうと言い始めるに違いないからだ。そんなことになれば、師匠の小判が無くなるまで相異坊は酒を飲み続ける恐れがあった。
 師匠は途中で買い求めた米を鍋に入れ、手早く処理した鳥肉と兎肉と野草を放り込む。いつも持ち歩いている調味料を加え、ぐつぐつと煮上げると鳥野草粥が出来上がる。湯気と共に旨そうな匂いが立ち上る。
 亭主から借りた椀にそれぞれ一杯づつ注ぐと、傍で羨ましそうに見ていた旅装の母子連れを手招きする。
「儂らはこの一杯で足りる。ヌシたちは亭主に椀を借りて好きに食うがよい」
 やつれた感じの母親が恥ずかしそうに言う。
「実は椀を借りる金がございませぬ」
 すると今度は師匠はその隣にいた浪人風の男を指さした。
「どうじゃ、そこのお主。椀三つ分借りる金はあるかの。払えばお主も食うてよいぞ」
 少し躊躇った後、浪人は鳥目を三枚ほど亭主に投げた。都合三文である。この時代、蕎麦一杯で十六文だからまさにはした金である。
「かたじけなし。馳走になり申す」浪人が言った。
「お主は金を払ろうたで遠慮することはない。どのみち道々採って来たものばかりじゃ」

 師匠が作った粥は恐ろしく旨かった。その旨さに三人が目を剥く。これも薬活の範疇だと師匠は独り言ちする。
 飯を終えると、相異坊は隅に寝転がって瓢箪からちびりちびりと酒を飲み始めた。母親は食事の礼にと食器を洗いに外に出る。
 じきに夜になると木賃宿は真っ暗になる。申訳け程度に行燈が一つだけ灯りを投げる。これも泊り客の誰かが買った油を使っている。誰も金を出すものがいなければ夜は真の暗闇で過ごす羽目になる。
 師匠は布団を一組借りるが、自分は入らない。元より相異坊も師匠も野宿しても平気な体だ。
 母子に促してその布団を使わせると、師匠は戦国大太刀を抱えたまま座って彫像と化した。
 いつもの事ながら見事な化身よ。酒を楽しみながら相異坊は感心した。気配を消すと石にでも木にでも化けられる。これほどの技を持つ者は今の時代にはそうそう居らぬ。
 下手な修験者よりも修験者らしい。これで剣術使いというのだから何かが間違っている。
 元々が古縁流は鎌倉戦国時代に創始された剣術の流派だ。源流は忍術であろうと考えられているが定かではない。あるいはどこかで剣の流派が忍術を取り入れたものなのか。そしてその忍術の一部としてときおり師匠が見せる薬活の技がある。
 あの腕ならばその気になれば薬の大店でも開けように。全く欲の無い御仁だ。これで剣士というのは惜しい。いや、その剣の腕を思えば、薬師にする方が惜しいのかもしれない。
 この男がもし修験道にのめり込んでいたら、かの有名な役行者を遥かに越える大験者となっておったであろうにとは相異坊はいつも思う。
 行燈の灯りが消えた。その後は皆の寝息だけが闇を満たしていた。



 次の朝、まだ眠っている母親の行李に誰にも見られないようにして小判を一枚滑り込ませてから師匠と相異坊は出立した。
 師匠のその行為に相異坊は何も言わなかったが、無言で酒の瓢箪を師匠に突き出した。
「ヌシは酒を入れれば入れただけ飲んでしまうからのう。いったいあれだけの酒がどこに消えるのやら」師匠はぶちぶち言った。
「ケチるな。おぬし、まだ他にも小判を持っておろう」
「あれが最後の一枚じゃ」しらりと師匠は嘘を吐いた。
 相異坊相手ならどんな嘘を吐いても師匠の心は痛まない。
 そんな馬鹿なやり取りを続けながら、昼前には目的の村に着いた。

 昼だと言うのに庄内村は静まり返っていた。
 二人を迎えたのはげっそりとした顔の村の庄屋であった。
「ようこそ来られました。相異坊様。そちらのお方は?」
「ワシの友人で怪異の退治屋だ」
「これ! なんという紹介の仕方をする」
 師匠が相異坊の頭をど突いた。もちろん本気ではない。本気なら今頃は相異坊の頭が無くなっている。もっとも本気なら相異坊は避けていただろう。
「それがし、ここなる相異坊殿の友人で侍の本間と申す。このたび手助けに参った」
 それを聞くと庄屋は深々と頭を下げた。
「真にもってありがとうございます。もはや我らには如何ともしがたいことゆえ、よろしくお願い申し上げます」
 そのまま庄屋の家に上げられた。
「まだ誰も戻って来てはおらぬな?」相異坊が念を押した。
「はい、まだ誰も」
「相異坊。ヌシ、この村に来るは初めてか」
「今回の件以降は初めて来たわ。話を聞いてゲンと川上を送り込んだだけだ」
「庄屋どの。お上は何と?」師匠は今度は庄屋に話を振った。
「訴えた所、お役人様が二人ほど来ました。嫌がっておりましたが佐江蔵が山の家に案内しましてな」
「戻って来たか」
「戻って来ませぬ」
「それで?」
「今度は捕り手の方々がやって参りました。これも佐江蔵が案内しまして」
「戻って来なかったのじゃな?」
「はい、戻ってきませんでした。それでまあそれっきりお上も黙りまして、一応お伺いを立てたのですがしばし待てとの御沙汰でそのまま」
「腑抜けどもめが。侍の風上にも置けん」師匠が苛立たしげに吐き捨てた。
「まあ期待はせぬが良いな。動くにしても来月より先であろう」
 相異坊はそう言うと空の瓢箪を庄屋に差し出した。その意味に気づいて庄屋が下働きを呼んで酒を命ずる。
 相異坊はここらの拝み屋の頭だということは重々承知している。それも霊験あらたかと評されている人物だ。粗末には扱えない。
 相異坊を怒らせて大変なことになった村の噂はいくつもある。どれも物騒な話ばかりだ。
「しかし不思議だな。普通は迷い家はすぐに居場所を変える。こいつはいつまでも同じ場所にいる」
「迷い家ですか?」と庄屋。
「うむ。家自体が妖怪なのだ。その家を訪れた者の命を食らって生きる。本来は半分神に属する妖怪なのだが。どうもこれは変だ」
「どのようにですか?」
「迷い家というのは戦う手段を持たぬ。ゆえにひどく臆病な妖怪なのだ。なのに逃げるそぶりがない。これをおかしいと言わずして何という?」
 酒を一杯に入れて戻って来た瓢箪を下働きから受け取りながら、相異坊は言った。
「とりあえず飯を食わせてくれ。旅の間に粥の一杯しか食うておらぬ。それからワシら二人で山へ入る。案内役はおるか?」
「佐江蔵を呼びつけてあります」



 佐江蔵は小柄な男だったが意外と整った顔をしている。これならば村でも女子にさぞやもてよう。本人も理解しているのか、綺麗に手入れした服を着ている。
 佐江蔵の案内で里山に踏み入る。やがて一際緑が濃い地域へと着いた。道端に地蔵菩薩の小さな石像が立っている。
「ここからが踏み入らずの山です」
 佐江蔵が説明した。目の前の森の切れ目を指さす。
「あそこから細い道が山の中に伸びています。その行き着いた先が山の家です」
 そこで佐江蔵は踵を返した。
「ではあたしはこれで」
 相異坊の手が伸びて佐江蔵の襟を掴んだ。万力のような力だ。
「まあまあ旅は道連れというではないか。最後まで付き合うが良い」
「止めてください。あたしは恐いんです。あの場所が恐いんです。あたしはあの場所で盗みを働いちまった」
「恐がることはない。儂らがお主を守ってやる」と師匠が割って入る。
「守るって相手は化け物ですぜ」
「化け物なら今までに何度も斬っておる。それにお主の行動のせいで大勢が神隠しとなっておる。ここで自分一人知りませんで済まされるわけもない」
 この言葉で佐江蔵は観念した。後は大人しく先導する。



「おかしいな」汗をぬぐいながら佐江蔵が言った。「この先のはずなのに」
「どうした?」相異坊が周囲を睨みながら尋ねた。こちらはさすがに修験者だけあって汗一つかいていない。
「道が途切れています。こんなはずは無いのに」
「確かにここなのだな」師匠が念を押す。
「しまった。迷い家め。すでにここを離れたか」相異坊が舌打ちした。
「まだ分からんぞ」
 師匠はそう言うと、戦国大太刀の鞘を地面につけた。持ち手の側に耳をつける。
 何か言おうとした佐江蔵の口を押しとどめて相異坊が師匠を見つめる。
 秘術『観音』。
 師匠が周囲の音を探る。地面につけた鞘の先を中心に、音の輪が広がる。集まって来た音を師匠の心がより分ける。
 息遣いだ。大勢の人間の静かな息遣いが鞘を通じて上がって来る。
 ふむ。師匠は鞘から耳を離した。
「まだここに居るな。恐らくは隠形の術だ」

 目の前にあれどそは見えず。これぞ隠形の術なり。
 隠形の術はそこに何もないという幻覚を見せる術だ。さらに高度なものになると隠形の術がかかった者に触れられても認識ができなくなるが、そこまでの術の強度はないと師匠は見た。
 忍術の中にも隠形の術はあるが、それは心活に属するため古縁流の技の中には入ってはいない。
 だが使うことはできなくても破ることはできる。

「佐江蔵よ。目を瞑れ。儂が良いというまで目を開いてはならぬ。開けば死ぬと心得よ」
「へ。それはどういうことで」いきなりの師匠の言葉に佐江蔵が慌てた。
「よいから眼を瞑れ」
 相異坊が手を伸ばすと佐江蔵の目を覆う。その際に軽く瞼を推したので、佐江蔵は思わずぎゅっと目を瞑った。
 終の秘剣『迷い星』。
 頭上に高く振り上げた刃の先端が揺れ、続いて師匠の大太刀が空を斬った。
 つうと目の前に広がる光景が揺れた。べろりと剥がれるかのように光景の一部が歪み消え去る。
 人智を越える終の技である迷い星はすべてのものを斬る技だ。硬いものも柔らかいものも、存在するものも存在しないものも、一切の例外無く切り裂く。
 これぞ古縁流秘技中の秘技だ。
 相異坊はこの技を以前に見ている。技の秘密を洩らせば、たとえそれが親友の相異坊であろうとも、師匠に斬り殺されることは十分に理解している。ゆえに相異坊だけは師匠の技を見ることを許されている。
 相異坊は佐江蔵の肩を軽く叩いた。
「もう目を開けてよいぞ」
 目の前に再び現れた小道を見て佐江蔵が目を剥いた。
「この道か?」との相異坊の問いに声も出せずにひたすらに頷く。
「よし、この先はワシらだけで行こう。お前は帰ってよいぞ」
 佐江蔵の背中を押して村へと送り出すと、二人して先へと進む。
 程なく小道の先に屋敷が現れた。


3)

 それは大きな大きな屋敷だった。門構えも立派で部屋数は幾つあるか分からないほどの規模だ。左右に大きく張り出した壁、玄関脇には大きな松の木が枝を広げている。
 瓦はどれも新品で、中央で睨んでいる鬼瓦は金で縁取りがしてあった。丁寧な彫りが入っている横の扉の先はこれも大きな庭と見えた。

「これは。想像していたよりも大きい屋敷だな」師匠が思わず感想を漏らした。
 相異坊は腕を組んで考えていたがやがてぼそりと言った。
「腹一杯食ったな」
「ああ、確かに。お主、丼で十杯もお替わりするのはやりすぎだろう。庄屋め。泣きそうな顔をしておったぞ」
「そういう意味ではない。迷い家は人を食えば食うほど立派になる。ワシはそう睨んでおる」相異坊は指摘した。「ここには大勢が来たからな」
「家が人を食うとはな」感慨深げに師匠が言った。
「文字通りではないがな。最初に迷い家に入る者は友釣りのエサだ。つまり何か素敵な宝物を持って帰る役だな。それに釣られて人々が訪れると、捕まえるだけ捕まえて家ごとどこかに消える」
「こいつは隠形をかけて居残りしていたな」
「まだ捕まえた人々の消化が終わっていないのだろう」
「ならば急がねばな」

 玄関から入るとどこにつながっているのか分からないので、二人が外から建物の横に廻ると、そこは立派な築庭になっており、広い座敷の表だった。
 座敷の中に大勢の人間が見えた。粗末な着物を着ているのは村人たち。そこそこ良い服を着たお役人たち。そして一目で分かる刺子半纏の捕り手たち。中で目立つのは山伏装束の二人だ。これが恐らくは相異坊の配下だ。
 いずれの人間も畳の上に座り込んでぼうっと宙を見ている。
「忘我の術か」相異坊が呟いた。
「気をつけよ。相異坊。何かが儂らを見ている」
「やはりか。実にうまく隠れておる。どこにおるのか分からん」
「とりあえず突いてみるか」
 師匠は言うと、ずけずけと座敷に上がり込んだ。まったくの自然体だ。
 こいつは見えぬものが恐くないのかと相異坊が呆れた。それから師匠に続いて座敷に上がりこんだ。
 奥の方の一人は横になっていたのでそこへ急ぎ、師匠が手を伸ばして確かめる。その死体はからからに干からびていた。
「死んでおる。それにしてもまるで即身仏のような姿だな」
「生気を吸われて死ぬとそうなる」
 木乃伊と化した男を見ながら相異坊が説明する。それから座っている山伏姿の一人に近づくと気合と共に背中に活を入れた。男の顔に驚いた表情が浮かび、意識が戻った。
「ほう。忘我の術というものは簡単に解けるものだな」師匠が感想を漏らした。
「抜かせ。ワシの験力あればこそよ。普通ならそう簡単な話ではない。これ。川上。しっかりせい」
「そ、相異坊さま。私はいったい?」
「川上。迷い家如きの術にかかるとは情けない。帰ったら修行のやり直しだぞ。覚悟せよ」
「迷い家ではありません。何か別のモノです」
「なに!?」
「私も健闘したのです。ところがあ奴、こちらが殴ろうがどうしようが効かぬのです。そのうち隙を突かれてガツンとやられてそのまま」
「相手はいったい何だ」
「天邪鬼と名乗っていました」
 天邪鬼とはアメノワカヒコという古代の神話から派生した妖怪だ。ひねくれた性格が有名な小鬼である。
「ほう。お主の右腕たる男を手玉に取るとは並みの鬼ではないの」
 師匠が背中に背負った戦国大太刀を下した。鞘からぎらりと光る刃をずるずると抜き出す。刃の長さは師匠の身長よりやや短い程度、肉厚な刃をしており重さは三貫ほどもある。鉄の棒に叩きつけても決して折れはしないほど頑丈な代物である。
 並みの者ではまともに振ることもできないこれを師匠は易々と振る。
「川上」相異坊が名を呼んだ。
「は!」
「目を瞑れ。これより起きることを見れば必ず死ぬぞ」
 慌てて川上が目を瞑る。
「ワシが良いというまで開けてはならぬ。薄目で見たとしてもお前は死ぬ」
「はは!」
 きっと相異坊様は何か術を使われるのだろうと川上は思った。修験術の中にはちらりと見るだけで命を奪うものがある。それらは大概が召喚術で、呼び出された鬼神を見ると呪いがかかるのだ。
 大威徳明王法だと川上は当たりをつけた。あれはヤバい。もの凄く、ヤバい。その神像を作っただけで彫り師が死ぬほどヤバい神様だ。
 ぎゅっと目を瞑る。ちらりと見てみたい誘惑はあったが、それと引き換えに命丸ごとでは割に合わない。
 その真相が、技を見た者を師匠が殺すことだとは、川上には思いつかなかった。

 そんな背後の葛藤など気にも留めずに、静かに師匠は庭に歩みを進めた。
「これほど見つめらると例え隠形をかけようが場所は分かるものよ。隠形をかけて隠れるなら息もしてはならぬ」と師匠は無茶を言う。
 大太刀を振る音はしなかった。正しく風を斬れば風切り音はせぬ。それが師匠のいつもの口癖だ。
 庭に生えていた松の大木が真ん中からずれて落ちた。切断面が恐ろしく滑らかだ。今の一呼吸で切断されたとは誰思おう。
 その背後に師匠と同じぐらいの大きさの鬼が潜んでいた。頭の上に一本角が覗いている。天邪鬼だ。これはもう小鬼とは言えない。
「また荒っぽいのが来たな。だがお前たちもすぐに座敷の連中の仲間入りだ」
 天邪鬼が宣言した。手に持った鎌を脅すように振った。
「お前たちは特別に手足を切ってから座敷に置こう。なに、ワシの術を使えばそう簡単に死にはせん」
 師匠は鬼のお喋りを大人しく聞いている気はなかった。
 ついと足を進めると、その刀を持った手が消えた。恐ろしい速度で刀を振ったのだ。
「切れぬ」天邪鬼が宣言した。
 師匠が放ったのは疾風の斬撃の十二連撃。この刃の暴風に周囲に立っているものが木といわず岩といわず、寸断されて吹き飛ぶ。
 終の技『春霞』。刀身届く範囲にて無事なるもの何もなし。
 その剪断の嵐の中で、天邪鬼は一人立っていた。傷一つ負うではなく。
「ほう」師匠が息を漏らした。
「呪禁か。珍しい術を使う」
 縁側で観戦していた相異坊が感心した。ふざけたことに横になって瓢箪の酒をちびちびとやっている。
 天邪鬼の顔に邪悪な笑みが浮かぶ。
「俺を殺せるヤツはこの世におらんよ。俺の言葉はすべてを禁じる」
 それから叫んだ。
「見えぬ」
 天邪鬼の姿が消えた。
 そうか隠形はこうしてかけていたのか。師匠は合点がいった。
「では試してみようかの」
 一言つぶやき師匠が空高く跳んだ。飛び降りざまに刀を振る。
 弐の皆伝技は力の技。技の名前は『滝流し』。敵の頭上より落ちる刃はあらゆるものを切り裂く。
 大太刀が地面に叩きつけられた。
 弾き飛ばされた土煙が周囲に立ち込め、師匠と透明なままの天邪鬼の周りに降り注ぐ。
 土埃にまみれ天邪鬼の輪郭が浮かびあがる。天邪鬼そのものは見えぬが、降りかかった土埃は目に見える。
「ぺっぺっ。何とはた迷惑な技だ」天邪鬼が文句を言う。
「余裕があるのう」
 師匠が大太刀を大上段に構えた。

「相異坊様」
 目を瞑ったままの川上が周囲の大音響に堪らなくなって相異坊に尋ねる。
「見るなよ。川上。間違いなく死ぬぞ。我慢せよ。じきに終わる」
 自分ではそう言いながら、本当に終わるだろうかと、相異坊はちらりと思ってしまった。
「相異坊さまも目を瞑っておられるのですか?」
「ワシは良いのだ。許されておるからのう」
「私は駄目ですか?」と川上。
「お前はお喋りだから駄目だ。ほらほら、目の隅がピクピクと動いておるぞ。薄目もならぬぞ。なにぶん、お前の命が懸かっておる」
 ぐびりと瓢箪から酒を飲みながら相異坊が答える。片腕を枕にしての酒盛りが、目の前に広がる修羅場とそぐわない。
「ときに相異坊様」
「なんじゃ。川上、うるさいのう。今よいところなのじゃ」
「相異坊様が申された通りに私はお喋りでして。あの妖怪が使う呪禁とやら、どうして切れぬ見えぬとの言葉を使うのでしょう。どうせなら勝てぬ負けぬでも良いのではござらぬのか?」
「それはなあ。川上。呪禁はもともとが五行から生じた技で相生相克の理の一部を言霊で歪めるものだ。だが扱う言葉は出来る限り単純でしかも想像しやすいものでないといかん。勝ち負けなどというどのようにでも取れる曖昧な言葉を扱うには莫大な妖力が要るものなのだ。そんな言霊が使えるのは禍津大神ぐらいのものぞ。いかに天邪鬼でもそこまでは無理だのう」
「そんなものですか」
「そんなものだよ」相異坊は大きくあくびをした。「やれ眠くなってきた」
「相異坊様!」
「喚くな川上。そろそろ決着がつくぞ」

 師匠には背後の相異坊とその配下の会話はすべて聞こえていた。
 まったくあ奴ときたらいつもこうだ。儂を働かせて自分は酒ばかり飲んでおる。そういう不満は心の奥にぐっと抑えて、師匠は目の前の敵に集中した。
「終の秘剣、迷い星」
 ふらりと天を彷徨った剣先が、彗星の落下に似せて目にも止まらぬ速さで落ちる。
「切れぬ」一呼吸早く天邪鬼が言う。
 あらゆるものをただ斬るという一点で扱う幽玄の剣技。だがその剣も天邪鬼の体をすり抜けてしまった。
「俺の術は、この日ノ本が産まれたときからのもの。日ノ本にあるものは何物も俺の言葉には逆らえぬ」
 傲慢な言葉を吐いて、天邪鬼が手にした鎌を振り上げた。
「避けれぬ」
 その言葉と共に振り回された鎌は師匠が受けた大太刀をすり抜けた。切り裂かれた腕が血を噴き出す。
「ほう。儂に血を流させる相手にあったのは久しぶりだ」
 師匠は嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑った。笑いに顔が歪み、怒り狂った阿修羅もかくやとばかりの顔がそこに生まれる。
 その恐ろしい笑みに天邪鬼が怯んだ。人間がこれほど恐ろしい笑みができるなんてとの驚きが顔に浮かんでいる。
 だが気を取り直すと天邪鬼は宣言した。
「どうだ。俺に勝てる者はこの世にはおらぬだろう」
「それはどうかな?」言うなり師匠は再び大太刀を振り上げた。「覚悟せよ。天邪鬼」
「切れぬ」天邪鬼が叫ぶ。叫びながら鎌を振り上げた。
 目にも止まらぬ速さで天空より落ち来った戦国大太刀が天邪鬼の頭に触れた。今度もすり抜けると思われたその大太刀は、天邪鬼の頭に触れる寸前に、目にも止まらぬ速さでくるりと回転した。刃が横になり天邪鬼の頭に激突する。
 師匠の戦国大太刀は三貫目の重みがある。それを師匠の膂力で叩きつけたのだ。たまらずに天邪鬼の頭蓋骨は潰れた。
「参の技、打鼓天」師匠が技名を唱えた。「切りはせぬ。ただ叩くだけ」
 古縁流の他の技が『斬る』の理を極限まで詰めた技なら、打鼓天は『斬る』の理を極限まで排除した技だ。打鼓天の技は髪の毛一本すら切ることはない。ただその凄まじい衝撃で叩き潰すだけだ。もちろんこれが戦国大太刀でなく普通の刀なら途中からぽっきりと折れて終わる。
「ほら、通じただろう?」
 誰に言うでもなく師匠は言った。
「ぐ、ぐ、ぐ」天邪鬼がよろよろと前によろめいた。
 再び師匠の大太刀が上がる。
「叩けぬ」天邪鬼が叫んだ。
 今度の師匠の大太刀は手元で回転せずにそのまま切り込んだ。天邪鬼の全身が縦に裂けた。
「死なぬ」二つに分かれたまま天邪鬼がかろうじてつぶやく。
「そうか。頑張ってみるがよい」
 師匠はそう答えると、打鼓天を続けざまに打ち込んだ。
 天邪鬼の脊柱が潰れ、手足が吹き飛び、足の骨が弾けた。天邪鬼だった肉片が地面に広く飛び散り、自身の血の池の中に浮かぶ。
「まだ死なぬつもりかの?」
 師匠が尋ねたが、返事はなかった。言霊なのだ。次を言わない限りは声もやがては消える。神通力もそれに合わせて消滅する。

「もう目を開けていいぞ。川上」相異坊が声をかけた。
 川上は目の前の惨状に言葉を失った。豪華な庭が今は肉片と血しぶきに染まっている。この人たちはいったい何をやったのだ。いや、いったいどんな怪物を呼び出したのだ?
「さて、皆を起こして帰ろうかの」
 何を誇るでもなく平然と師匠が言った。
 師匠の背後に阿修羅を見た思いがして、川上は心底肝が冷えた。



 相異坊に活を入れられて、まだ生きていた全員が目を覚ました。
 行方不明であった村人たち。後から捜索に来た役人たちに捕り手たち。それと他にも何人か相異坊の知り合いの杣人たちが混ざっていた。

 皆を帰そうとしたときにまた一悶着があった。
 村人たちが迷い家の中を漁り始めたのだ。部屋の調度を引っくり返し、箪笥という箪笥の引き出しを開ける。床の間の掛け軸を剥がし、両手一杯に荷物を抱えて走り回る。それを見ていた役人たちも止めるどころか自身も略奪に加わる始末だ。
「オラたちゃ手ぶらじゃ帰れねえだよ」
 その一言が彼らの本性を表していた。
「あやうく命を失う所だったというに何と欲深いことだのう」師匠が嘆息した。
「お主が欲が無さすぎなのだ」
 相異坊はそう答えたが、修験者の配下ともどもこの略奪争いには加わらない。
「相異坊様。この家はどういたします?」修験者の川上が尋ねた。
「うむ。こ奴らがいなくなるまで手はだせぬの。家が頭の上から崩れてきたらこ奴らでは避けられまい」
「好きにすればよい。儂はもう帰るぞ」師匠は踵を返した。
「まあ待て。ではこうしよう」
 相異坊は懐から一枚のお札を取り出すとそれを柱の一つに貼り付けた。
 やたらとくねくね曲がった文字が墨書されている。その上に相異坊が自分のツバをなすりつける。
「では行こう。帰りに庄屋の家に寄って何が起きたか教えねばな。それにゲン、川上。おぬしらずうっとここに座っておったで腹が減っておろう。庄屋の家でたんと食わせて貰おう。それぐらいの義理は庄屋にもあるだろうよ」
 それを聞きながら庄屋の家に茶があれば善いなと師匠は思った。

 大きな飯櫃に庄屋は五回ほど米を炊いた。それでも勢い衰えるを知らぬ修験者三人の食べっぷりに庄屋は泣きそうな顔になった。
 ばりばりとタクワンを丸ごと齧りながら忙しなく玄米飯を掻きこむ。
「よう食うの」師匠が感心した。
 相異坊は大男だが、横幅はそれほどでもない。太った修験者などこの世に居る道理がないのだ。これほどの飯がその体のどこに消えているのかは謎であった。
「馬鹿を言うな。験力を使うのは腹が減るものじゃ。なにせ今回は村人と役人全員に活を入れたからの」
「まことに。お頭にはいつもご迷惑をおかけいたします」
 これも口一杯に飯を頬張りながらゲンと呼ばれた修験者が言った。
「気にするな。あの天邪鬼は普通の鬼ではない。見た目はただの小鬼だが、日ノ本開闢以来の大妖怪の類だ」
 横で静かに茶を啜っている師匠を顎で示した。
「本間殿がいなければこのワシでもやられておったろうよ」
「誉めるでない。ヌシに誉められるとケツが痒くなる。それといくら誉めても金は貸さんぞ。返って来た試しがないからの」
 それを聞いて相異坊は困った顔で酒の瓢箪を取り出し、振ってみせた。中身は空だ。それを渋い顔の庄屋に渡す。
「相異坊様」川上が言った。「天邪鬼は片付いたとして、あの家はどうなさいます」
「おう、忘れておった。おい、宗一郎。火はないか」
「庄屋殿に借りればよいではないか」
 そう言いながらも、いつも持ち歩いている胴乱から小さな道具を取り出した。特殊な容器で内部には小さな火縄が一日中燃えている。軽く振って火縄の先に火を起こす。
 二人の配下がはっとする。滅多に見られない相異坊の修験術だ。見逃すことはできない。
「かたじけない」
 火縄を受け取ると相異坊は真面目な顔になり印を組み、小さく唱えた。
『おん、あぎゃなうぇいそわか』
 相異坊が、ふうっと火縄に息を吹き付けると燃えていた火が一瞬宙に浮き、それから人型へと変ずるとたちまちにして消えた。
「よし、掛かった」
 元の形相に戻った相異坊はまた箸を取り上げた。
「ああ、験力を使うと腹が減る」
「あのお札かの?」と師匠。
「火界呪符よ。今頃あの家は燃えておろう」
「まだ誰か家に残っておったら?」
「あれより数刻が経っておる。まだ盗みを続けているような欲深の馬鹿者は死ねばよい」
 相異坊は冷たく言い放った。
 人の欲など腹を満たすだけあればよい。過ぎたる欲は必ず身を亡ぼすもの。あの者たちもそれを悟れば良いのだが。師匠はそう思いながら茶を啜った。
 旨い茶だった。


 後に聞き及んだ話によれば、村の者はみな多くの漆塗りの食器や豪華な花瓶などのお宝を持ち帰って来たという。これで村中がお御大尽さまよと浮かれ騒いだが、一夜明けるとそれらはみな土くれに化けていたという。