古縁流始末記銘板

本間宗一郎、月にてウサギと餅を搗く

1)

 何者かに見張られているのは分かっていた。
 古縁流第二十八代目伝承者の本間宗一郎は考えていた。
 師匠の感覚は常人を超える鋭敏さがある。その師匠にすら気配しか感じさせない。これは由々しき事態であった。
 一歩で四間を跳べる師匠が気配へ向けて跳ぶともうそこにはいないのである。こんなことができる者は足が単に足が速いなどというものではない。何か別のものだ。

 気配はもう長い間師匠に付きまとっていた。出現は気まぐれで、あるときは毎日張り付いていたと思ったら、何年も姿を見せぬこともあった。
 危害を加えられたわけではないが、それでも気味が悪いことこの上ない。
 いづれ十二王の手先と思われた。
 師匠には観音の技がある。床に刀の先を触れて地の音を聴けば周囲数里の生き物の足音を観ることができる。音を観るのだ。ゆえに観音との技名がついている。
 だが、相手がどのような姿か分からねば、いったいどの足音が探す相手かは判別がつかぬ。一番最悪なのは相手が子の王であった場合だ。無慮数百と聞き取れるネズミの足音から特別な一匹を見つけ出すのはさしもの師匠にも難題というもの。
 実に苛つく状況だ。
 そろそろ何とかしなくてはと思い始めたときに、ちょうど紫黄山の山伏頭である相異坊が訊ねて来た。

「頼もう」
 一声かけてから返事を待たずに山伏装束の相異坊が師匠の家に入って来た。顔が縦に長い異相の大男である。ゆえに通り名は相異坊。本名は師匠ですら知らぬ。
「帰れ」師匠の冷たい声が飛ぶ。
「では遠慮なく」
 師匠の返事は無視して、下駄を脱ぎ散らすと相異坊は土間から上がる。
 相異坊の山伏衣装は泥土に汚れ、お世辞にも綺麗とは言えない。
 そのまま囲炉裏の横座にどっかと座り込むと、周囲に土埃が立ち上った。
 師匠が嫌な顔をする。
「これ、今朝掃除したばかりよ。汚すな」
 文句を言いながらも棚から茶碗を持って来てお茶を注ぎ、相異坊に出す。
「いや、ワシはこれで」
 お茶を土間に流すと相異坊は水を貯めてある大甕の前に立った。その手が伸びるとざぶりと音を立てて水の中に入る。
「これ、土塗れの手を水甕に突っ込むな。水が汚れる」
 当然ながら師匠が文句を言う。
「なに、ワシは構わん」相異坊が返す。
「儂が構うのだ」
「おお、あったあった」
 師匠の言葉を再び無視して相異坊は大甕の水の中から瓢箪を掬い上げた。
 嬉しそうにそれを抱えて囲炉裏に戻ると、瓢箪の蓋を抜いて中の酒を茶碗に注ぎ込む。
「まったく。折角隠しておいたのにどうやって見つけ出すのだ」
 師匠がぶちぶち文句を言う。
「そこはそれ、これが験力というものよ」
 得意げに相異坊が説明する。
「酒の在処がわかる験力か」
「そうよ。この験力があればどこでも酒にありつける」
「本当に情けない験力だの」師匠は嘆息した。
「何を言う。この験力に勝る験力などあるものか。ワシはこの験力を得るために十年は修行したのだぞ」
 相異坊は逆に胸を張る。
「だいたい。本間。おヌシは酒は飲まぬのであろう。ならばなぜここに酒がある。ワシに飲ませるために用意したのであろう。ならばこうしてワシが酒を飲むのはおヌシの本望というもの。つまりワシはおヌシの心を汲んでこうして酒を飲んでやっているのだ」
「やれやれ。ああ言えばこう言う。ほんにお主は」
「良い友であろう?」
 にやにやと笑みを顔に浮かべて相異坊は返す。
 師匠は否定しなかった。

 酒を椀に一杯ぐいと飲み干すと、相異坊は座りなおした。
「本間よ。以前に黄金長者が約束した紫黄山の宿場町。見事にできたぞ」
「ほう」
 鎧武者騒動の際の報酬三千両で頼んでおいた宿場町の開業のことである。
「それがな。できたのは三千両どころでは無い大きな町よ。宿屋が五つばかりに飯屋が十ほど。酒屋も三件ある。それになんと湯屋まである」
「ほう」
「黄金長者殿の入れ知恵での、そこの湯舟に毎日紫黄山の中腹にある冷泉から水を汲んで来るようにした。そこそこの道も設えたからそれを使って子供たちが大八車で水を運ぶのだ」
「それはまたどうして」
「それでな子供たちを先導してきたウチの行者が湯屋の前で祈祷を行ってから、これをざあっと湯の中に流し込む。題して紫黄霊場の有難いお陰の湯というわけだ」
「ほう」師匠は茶を啜る。相異坊も酒を自分の茶碗に注ぐ。
「でな、黄金長者殿の所の店の者がやってきて湯浴みをすると、あら不思議、腰の痛みは治るは、目のかすみは取れるは霊験あらたか、とまあこういう仕組みだ」
「ほほう」初めて師匠が感心した。「それでどうなった」
「それがな。不思議なことに黄金長者殿のサクラがいなくなった後も、病気が治った体が楽になったと色々あってな。今では大層評判になり、遠くから大勢の湯治客が訪れる始末よ。
 山奥に行かなくても湯治ができる上に、綺麗どころも揃っておれば旨い物も揃っておる。おまけに街道近くで交通の便がよい。当然ながら宿は大繁盛。
 お陰で最初の計画以上にたくさんの孤児たちの食い扶持を稼ぐことができるようになってな。今度は新たに寺子屋を建てる予定だ」
「ほほう」
「黄金長者殿は傑物だの。そうなるとウチの行者たちも町に降りて来て祈祷をやる者もおれば薬草を煎じて売る者も出てくる。これも評判になっての。今ではここの宿場町では病気が治らぬ者はおらぬとまで評判になっておる。
 そうなると街道の親分衆も気が気ではない。何とかこの儲けに食い込もうと若い者を送り込んで来おったが、いつも紫黄山の荒くれ行者がうろうろしておるので、ついに手を出すのは諦めおった」

 紫黄山は荒行で有名な霊場だ。そこで修行する行者はざっと数えて千名。いつもそれだけの数が揃うわけではないが、荒行者千名は親分衆でも手を出すのはためらう相手だ。どの一人を取っても山を駆け谷を跳ぶ上に力が強く、おまけに命を賭けるのに躊躇わない。さらに相異坊の側近になると怪しげな術まで使う者がいる。
 何よりも相異坊とくれば霊験もあらたかだが悪名も高い。たった一人で平気で死地に踏み込むし、荒事が酒の次に好きという実に厄介な男だ。
 いくら金のためとは言え、そんな場所に手を出すのは愚か者の極みというもの。

「お主も町に降りておるのか」
「いつもではない」
「ということは降りておるということか。面倒見がよいの」
「黄金長者殿はあの街の酒屋にあの酒を預けたのだ。それもなワシが顔を出したら一日につき一杯だけ出せと厳命してな。まったく。あのケチめ」
「こら、誉めるか貶すかどっちかにしろ。ややこしくていかん。しかし奇妙だな。お主なら酒屋の主人の頭をポカリとやって酒樽ごと強奪しそうなものだが」
 師匠が疑問を口にすると、相異坊は頭を掻いた。
「それがな。その酒屋の酒樽を守っておるのが、ほれ、例の孤児たちの頭でな。
 齢はまだ十もいかぬ子が、その歳で孤児たちの頭をやって食わせておったのよ。黄金長者もそれを見込んでお大事の酒をその子に預けたわけで、その顔をこのワシが潰すわけにもいかんでなあ。さしものワシも手が出せぬわい」
 がははと相異坊が笑った。
「まあそういうわけで一日につき一回だけあの街を訪れておる。まことにもってあの酒は旨い」
「そうだろうよ。黄金長者の特別な田んぼで特別に栽培して、それを特別な水と特別な杜氏が特別に丹精込めて作り上げた特別な酒だ。いま儂が一体何回特別と言ったか数えてみろ」
「なるほど道理で旨いわけだ」相異坊は師匠の問いかけをさらりと投げ捨てる。
「やれやれ。長者殿も大変な人物と知り合いになられたのう」
 黄金長者に相異坊を紹介したのは師匠だから気が気でない。
「なに! ワシの事を大変な人物だと。そう誉めるな」相異坊が照れた。
「誉めておらん」ぶすりと師匠が呟く。
 普段から不愛想な師匠がこれほど喋るのは相異坊と会話をするときぐらいのものなのだが、本人はそれを意識していない。

 しばらく酒を飲んだ後に相異坊は瓢箪の中の酒の量を確かめる。ほぼ半分だ。
「それよりおヌシ。何だか浮かぬ顔よの。悩み事でもあるのか?」
 相異坊は鋭い。人の気分を察知できないのでは人の上に立つことはできぬ。
「うむ。それがの」

 師匠は例の視線について一通り話す。十二王の名前は出さない。それは古縁流に関する秘事だからだ。また相異坊を己の流派の戦いに巻き込みたくはないとの思いの表れでもあった。

「遠くから見張るだけで近づかぬか。それでは炙り出すのは難事だのう」
 相異坊が顎を掻いた。蚤が一匹その体から飛び出す。囲炉裏の中の炭をかき混ぜていた師匠の腕がひょいと動き、火箸の先で逃げる蚤を当たり前のように潰すとまた火灰の中に戻った。
 恐ろしく自然で弛みない動き。見るべき者が見たら、その武術の腕前を想像して感心したことだろう。
「これ相異坊。今度ここに来るときはその宿場町の湯殿に入ってから来い」
 師匠が文句を言う。
「断る。あれは大事な商売物だ。ワシ如きが使ってよいものではない」
 相異坊はそう答えてから続けた。
「一つ案がある。炙り出せなければ引き寄せればよい」
「ほう?」
「手筈は整えてやろう。だが金が要る」
「ほう?」
「そうだな。三千両でどうか」しらりと相異坊は言った。
「三十両」師匠が値切った。
「よし、決まりだ」
 相異坊が手をぽんと叩き合わせる。してやったりとの顔だ。掛け合いは最初から吹っ掛けるに限る。
 こやつと思いながら、師匠は火箸で炭の一つを捉えて投げ上げた。
 炭がコンと音を立てると、ずれた天井板の隙間から小判の切り餅が一つ落ちてくる。それは落ちて来る途中で消えると忽然と相異坊の手の中に現れた。
 眼にも止まらぬ速さの手さばきであった。
「まずは二十両」と師匠。「残りはすべてが終わってからだ」
「ほう、おヌシの家の天井は突くと小判が降ってくるのか。いいなあ。ワシもこんな天井が欲しい」
 しばらく相異坊は師匠の家の天井をつついていたが、それ以上小判は落ちては来なかった。


2)

 関山村の庄屋の五郎蔵は埃舞う道を歩いていた。
 手には米と野菜の入った袋を持っている。行き先は本間先生の家である。
 これから村人たちの薬を貰いに行くのである。手土産はそのお返しだ。
 本間先生が薬草から作る薬はそれは驚くほど良く効いた。ひょんなことで本間先生と知り合って薬を作って貰うようになってから村人は病気知らずである。
 ほんに有難い神様のようなお人じゃ。あのお方は剣の腕も大層なものと聞いておるが、医者の道を進んだ方が良かったのではないか。
 五郎蔵は心の中で拝みながら、最後の道のりを進んだ。

 師匠の家は道外れに一件だけポツンと建っている。大きな家ではないが掘っ立て小屋というわけでもない。元はきちんとした農家の家だったものを譲り受けたものだ。
 周辺は元は畑だったが、今では師匠がわずかに耕す範囲だけが畑として残り、後は草が生えるままに放置されている。そもそもが黄金長者の依頼や十二王絡みで長い間家を空けることがあるので、真面目に作物を作ることができないという事情がある。

 いつもは人気の無いその家の周りで大勢の人が立ち働いている。
 これは何事かと覗き込んで五郎蔵は仰け反った。
 家の前に忌中の札が掛かっている。まさかとの思いに慌てて家に駆け込んだ。
 奥座敷に丸い大きな桶、つまり座棺が置かれている。
 その周囲には祭壇が飾られ、坊主がその前に座って何やら経を唱えている。ぷんとお線香の匂いが鼻をついた。
「こ、これは。本間様は」五郎蔵は手近にいた人に声をかけた。
「昨夜遅くに。急に。本当に残念なことで」
 その返事を聞いて腹の底がずんと冷えた。
 庄屋はへなへなとそこに敷かれた茣蓙に座り込む。読経が右の耳から入って左の耳へと素通りする。
 これから薬をどこから手に入れようとちらりと思ったが慌ててそれを打ち消す。こんなときに不謹慎だ。祭壇に両手を合わせて心を落ち着けようとする。
 村から香典を幾らか包まなくてはと考えて、さほど金を持って来ていないことに気が付く。すぐに家に戻って取って来るか。いや、先に焼香を済ませて金は後で届けさせればよいか。喪服を出させねば。通夜はいつになるのか。頭の中を様々な思いが駆け巡った。
 ここに集まった人たちは近隣の者たちだろうか。それにしては見覚えがない。先生は色々と顔の広い人だったからその関係なのだろうか。

 気が付くと読経が終わっていた。お坊さまは祭壇の脇に控えている。
 話し出すなら今と思い、口を開いた。
「ご焼香させていただいて宜しいでしょうか」
 身振りでどうぞと言われ、庄屋は祭壇の前に進みでた。
 焼香を終えると、大きな座棺の前に案内された。目の前で蓋を開けてくれる。
 この中に変わり果てた姿の本間様が納められているのか。
 五郎蔵は覚悟して座棺を覗き込んだ。そこには変わり果てた姿の師匠が・・いなかった。
 その中では普段の服を来た師匠が蹲っている。
 その眼がぎょろりと動き、手が上がると素早く黙っていろとの身振りをする。
 五郎蔵は腰が抜けるかと思った。膝が笑うところを、すぐ背後に来ていた誰かが素早くしかし力強く体を支えてくれる。
「声を出さないで」耳元で誰かが囁く。
 座棺の中の師匠が胸元に何かを書いた紙を掲げる。
 儂が死んだことにせよ。薬は薬棚の上から二段目左から三番目にある。きちんと煎じて飲みなさい。そう読めた。
 がくがくする腰を必死で抑えて、薬棚へ進むと言われた薬を手に入れて、家から出る。
 先生様は借金で追われているのだろうか。それで死んだことにして。だとすれば香典は出さなくてもよいのか。
 もう何もかも分からぬことばかりだったので五郎蔵は帰って寝ることにした。

 存外によく寝られた。


 相異坊が遣わした偽弔問客たちはよく働いてくれた。立派な葬式を上げて、その夜のうちに通夜となった。

 紫黄山霊場に詰めている修験者たちは三種類に分かれる。
 一つは霊場に住み一年中修行に明け暮れる者たちで、常に山伏装束を着ている。彼らの呼び名は山伏衆であり、たまに町に降りて加持祈祷を行って生活を維持している。多くは相異坊の配下として動き、紫黄山修験者の中核を成している。
 次は他の霊場から流れてきたもので、あちらこちらの霊場を放浪しては修行を積む者たち。修験者の間では客人衆と称されている。次の霊場に行く者もいれば、紫黄山にそのまま居つく者もいる。
 最期は普段は市井で普通に生活し、一年のうちのある時期だけ霊場に籠り修行をする者だ。願掛け修行もあれば、己の内にあるものにつき動かれて来ることもある。町衆と呼ばれる人たちがこれに当たる。
 今回相異坊が動員したのはこの人々だ。小判を与えて雇ったと言ってもよい。だから元々がごくごく普通の町人たちであり、何の違和感も感じさせない。

 このうち一人だけが寝ずの番に残った。
 家の中に行灯を一つだけ灯し、一人で酒を抱えて飲み始める。無論これも修験者の一人である。ただし気を張らずに、酒を飲むだけ飲んだらだらしなく寝ろと相異坊に言い含められている。
 荒行で有名な紫黄山の修験者だ。その気になれば一週間ぐらいは眠らずに済ますこともできるが、それが目的ではないのでわざと心を緩めたまま無防備な居眠りに落ちた。
 家からかなり離れた場所では隠形術をかけたまま相異坊とその右腕と目される二人が見張っている。
 調息を行い、息すらも音がしないほどに静かだ。一分間に一回の呼吸。木でもあり石でもある隠れの法。これぞ修行の成果だ。

 夜半、家の外にひたりと足音がした。
 座棺の中で師匠も石となっていたが、その石の心の中で目を開いた。観音が見せる闇の世界の中にいきなり足音が湧いたのだ。
 歩いて来たのではない。跳んで来たのではない。どう考えても空から音もなく地に降り立ったように思える。
 酉の王?
 だが、酉の王は過去の古縁流の伝承者が倒している。だからこそ謎であった。
 ひたりひたりと足音が家の中に入って来る。それは座棺の横にある祭壇の上に登った。
 そのままでは座棺の縁に届かないとすれば、人間よりも背が低いのか。師匠は心の中で身構えた。
 やがてわずかに開けてあった座棺の蓋がゆっくりと開き、上から侵入者が覗きこんできた。
 侵入者と師匠が睨みあった。

 ウ・サ・ギ。
 普通よりも大きなウサギだ。白くて長い耳が上に伸びている。

「見~た~ぞ~」
 師匠がにんまりと笑った。その笑い顔の恐ろしいこと。恐ろしいこと。人間がこれほど恐ろしい笑顔を作れるとは誰が想像しただろう。
 ウサギが明らかに怯んだ。
 一瞬の間の後、師匠が座棺から垂直に飛び上がった。長い間同じ姿勢で固まっていたのに、それだけの動きができるのは流石に古縁流の伝承者であった。
 天井付近に糸で吊るしてあった戦国大太刀を掴むと空中で抜刀した。同時にその手から手裏剣が飛ぶ。
 大ウサギの姿が消えた。寸前までそれがいた場所に手裏剣が次々に突き刺さる。
「うぬ。逃げるな」
 着地ざま外に飛び出した。もうそこには何もいない。
 大太刀を地面に突き立てて音を観る。
 ウサギの足音はいない。代わりに三人の人間が近づいて来る。
「おう、本間。あれは何だ。気配がいきなり消えたぞ。家の中に入るところは見えたが出るところは見えなかった」
 相異坊が報告する。
「残念じゃ。逃げられた」と師匠。
「正体は見たか?」
「見た。だがお主らに教えることはできぬ。すまぬ。許せ」
「そうか。それはよい。ではワシらの仕事はここまでだな」
 相異坊はどうしてとは尋ねない。二人とも普通の生活をしているわけではないのだ。単なる好奇心で互いの事情には踏み込まない。話すべきだと思えば必ず話してくれる。話さないのはそれなりの理由がある。
 二人の関係はそういうものであった。

 家の中で居眠りしていた男を起こして帰すと、相異坊と師匠は囲炉裏を間において向かい合った。
 相異坊は祭壇の裏から隠しておいた酒壺を引き出してくる。葬式の際にこっそりと運び込んでおいたものだ。
「こら、これから飲む気か」師匠が咎める。
「何を言う。今日はおヌシの葬式の日ぞ。友の冥福を祈って飲まなくてどうする?」
「儂は死んではおらぬ」師匠がぶすりと言う。
「死んだではないか。でなければ葬式などはせぬ」
「ええい、ああ言えばこう言う」
「そりゃワシは口から先にこの世に産まれたでな。死ぬときは口は最期までこの世に残して酒を飲みながら死ぬつもりだ」
 さて、と相異坊は手を差し出した。
「残りの金を貰おう」
「覚えておったか」さも残念そうに師匠は言う。
「あたり前だろう。前金は全部今日の参列者に駄賃として配ったわい。残りを貰わねばワシはタダ働きよ」
「たまにはそれも良かろう」
「そうはいくか。ほれほれ寄越せ、ほれ寄越せ。ありったけの金を寄越すがよい」
 相異坊は手をひらひらさせる。
 師匠は玄関口を指さした。
「それ、その戸の丁度真ん中の土の下に埋めてある。帰りに掘って行くがよい」
「何とそうか。道理で扉を開けるたびに足先がムズムズしたわけだ」
「この葬式支度はどうする?」
「家の外に放り出しておいてくれ。明日片付けに来させる」
 しばらくは囲炉裏の前で酒と茶を啜る音がしていた。
 やがて相異坊がぼつりと言った。
「強敵か?」
「儂の手裏剣を避けおった。どうやったのかは知らぬが」
「手練れなら手裏剣ぐらい避けるだろう」
「儂の手裏剣は今までに誰にも避けられたことはない」
 とんでもないことをさらりと言う師匠。
「そうか。なら強敵だのう。ワシに何かできることはないか?」
「無い。ここからは古縁流だけでやらねばならぬ」
 そうかとだけ一言返して相異坊はゴロリと横になった。じきにイビキをかき始める。師匠はもうしばらく茶を飲んでいたが、やがて何かを決心したかのように口を結んだ。


3)

 師匠は金属のドウランの中に古縁流の旅支度を詰め、戦国大太刀を背負うと急ぎ家を出た。
 人気の無い場所へと進む。海が見える崖の上だ。街道からは遠く離れていて、藩のお止め地なので誰もいない。何年かに一回あるか無いかの軍事演習に使う場所なので、人も住んではいないただの捨て地だ。
 草が一面に生い茂るこの地の真ん中で、師匠は待った。
 家を出たときからずっと視線は感じていた。
「そろそろよかろう。十二王の一柱。卯の王よ。出てくるがよい」
 師匠は大声で呼ばわる。
 風が吹いていた。草が風に揺れる音以外は何もない。ときおり崖下で高い波が起きて、それが岩に当たって砕ける音だけが静けさに彩りを添える。
 師匠は足下に突き立てた刀の柄に耳を当てた。
 秘技観音。
 師匠を中心にした心の暗黒の中に無数の音が波紋となって広がる。その中にウサギの足音が一つだけ混ざっている。
 間髪を入れずに棒手裏剣を投げた。細い鉄の塊が叢を貫く。
 いない。瞬時に音が消えた。師匠はそう判断した。
「いきなり手荒だな」背後で声がした。
 声を発したのは普通のウサギの二倍はある大ウサギだ。長い耳がこれも風に吹かれて前後に揺れている。
「無駄だ。そなたの技がいかに優れていようともワシには届かぬ」ウサギが指摘した。
「神通力か」師匠も指摘した。
 古縁流の宿敵である十二王は単に言葉を喋るだけの動物というわけではない。いづれも特異な神通力を持つ怪異の王たちなのだ。
「その通りだ。ワシの神通は『縮地』。いかなるモノよりも早く遠く跳ぶ技よ」
 大ウサギは後ろ脚でたんたんと地面を叩いて見せた。
「ゆえにいかなる物もワシを傷つけることはできぬ。いかなる者もワシを捉えることはできぬ」
「それは試してみねば分かるまいよ」
 言いざま、師匠は跳躍した。同時に鞘に納めたままの大太刀を凄まじい速さで振り回す。それはたった今まで大ウサギがいた空間を薙ぎ払った。
「無駄じゃ。無駄じゃ」またもや師匠の背後から声がした。
「稲光の速さを雲耀と呼ぶそうだな。だがワシの縮地はその光そのものよりも速い。
 そなたの刀は光よりも速いのか?
 そうでなければワシを斬ることは叶わぬぞ」
「厄介だの。だが見事に切ってみせよう」

 大太刀の鯉口を切る。戦国大太刀は長いだけあって、抜刀は簡単にはいかない。小柄な師匠では鞘を投げ捨てる形でしか抜くことはできない。
 しゅりしゅりと音を立てながらぎらりと光る鋼の刃がその全貌を現す。
 繊細で美しく磨かれた狂暴凶悪な刃。
 戦国大太刀。

「無駄だから止めよと言うておる。ワシはそなたを傷つけるつもりはない」
 長耳兎が言った。
「それを信じろと言うのか? 十二王よ。主らは我ら古縁流の宿敵ではないか」
 今度は少し離れた所に普通に跳ぶと、大ウサギはそこに腰を下ろした。それは奇妙に人間を連想させる仕草であった。
「ワシはウサギの王よ。だからこれまで不殺を貫いておる。ウサギは何者も殺さぬゆえに何者にも殺されぬ。何者もワシの敵ではなく、ワシも何者の敵ではない」
「だがお主は十二王であろう。我が古縁流とは戦わねばならない因果がある」
 ウサギはこれも人間に思える動作で首を横に振った。
「そのような因果は無い。確かにワシは十二王ゆえに、その務めとして古縁流の伝承者を見張っておる。だが見張っておるだけだ。それを他の十二王には伝えぬし、十二王についてもおヌシたちに教えはせぬ。ワシはどちらにも加担はせぬ。だからヌシらの戦いにワシを引き込むな」
「信じられぬな」師匠は言った。
 ほとほと困ったという風に大ウサギは両手を振った。
「本当に頑固だな。古縁流最強にして最後の伝承者、本間宗一郎よ」
「お主、名は何という?」
「長耳だ。見た通りの名よ。ついでに言えば、齢一千歳は優に越えておる。年上は敬えよ」
「お主の墓にはその名を刻もうではないか」
 師匠は抜き放った大太刀を頭上高く掲げた。
「いざや十二王、尋常に死合え」
「断る」
 師匠の剣が落ちるよりも早く、長耳兎は消えて師匠の背後に現れる。それを正確に追って一文銭が飛ぶ。師匠の手の中で指だけで銭を弾き出す。指弾という技だ。これには一切の予備動作が無く、それ故に避けるのが難しい。
 だがそれでも一瞬遅い。一文銭は今までウサギがいた場所の空を切った。
「だから無駄だと言うておる」
 また別の場所に現れた長耳兎が文句を言う。
「神通力で光よりも早く跳ぶ。そのワシをどうやって斬るのか。本間よ」
「試してみねば分かるまい」
 今度は十枚の一文銭が宙に放たれた。だがそのいづれも長耳兎に届かない。瞬きする間に師匠の背後に跳ぶ。
「恐ろしい速さだのう」
 師匠は大太刀を頭上に掲げたまま長耳兎との距離をじりじりと詰める。
 この剣形は秘剣迷い星の構えだ。だが神速を誇る剣といえど、長耳兎の神通力を越えることができるかどうか、師匠にも自信はない。相手は千年を越える神域の化け物なのだ。

「終の秘剣迷い星参る」
 言うなり、師匠の剣は天を指したままふらりと揺れる。次の瞬間、落雷よりも速い刃が風を斬る。
 光の輝跡が長耳兎の体を分断したと思った刹那、またもや長耳兎は消え、師匠の背後に出現する。
 と、師匠の手が引かれた。
 山蛾の糸。それもより細く、より透明な糸が長耳兎の全身に絡みついている。まるで蜘蛛の糸のようなそれを、師匠は素早く手繰り寄せ長耳兎を引きずり倒す。
「な!」長耳兎が慌てる。「そうか、さっきの投げ銭か」
「見えなかったろう。特別に作った山蛾の糸よ。弱い糸だがそなたぐらいは絡み取れる」
 言いながらも師匠は長耳兎目掛けて大太刀を振り下ろした。
「させぬ」
 糸に絡まれながらも、長耳兎は地を蹴った。

 周囲の光景が反転した。
 気づけば強烈な日差しの中、周囲に広がるは砂の海。
 落下の驚愕と共に着地し、前に転がって衝撃を逃がす。細い山蛾の糸が切れ、長耳兎が転がって逃げる。
「うぬ。自分が跳ぶだけでなく、自分に触れたものも一緒に跳ばせるのか」師匠が歯噛みする。
 知らぬとは言え、まんまと敵の術中に落ちてしまったのだ。それが師匠の侍としての矜持を傷つけた。己はなんと未熟なことよと歯噛みする。
「宗一郎。この修羅めが。ここは日ノ本を遥かに遠く、見た通りの砂の国よ。おヌシはここでしばらく自分を見つめなおすがよい。その自慢の剣技がここで何の役に立つのかとっくりと考えてみるがよい」
 そう言い残すと、長耳兎は後足で地面を叩いて消えた。


4)

 暑かった。とにかく暑かった。
 日差しは日ノ本と比べて限りなく強く、吹き出た汗があっと言う間に乾く。
 風はそれほど強くない。しかし見渡す限り砂だけの光景が心を滅入らせる。
 長耳兎は自分の神通力を縮地と呼んでおったな。一瞬でどんな遠くにでも行ける力。
 まさか他人をも巻き込んで神通力を使えるとは思わなかった。
 抜き身の大太刀を手に持ったままこんな所にまで連れてこられてしまった。長耳兎がこのまま戻って来ねば、ここで渇き死にするのが落ちだとは理解できた。
 見渡す限りの砂の丘の連なりの先には何か街でもあるのだろうか。それともどこまで行っても砂の海しかないのだろうか。
 師匠は大太刀を地面に突き刺した。その柄に耳をつける。

 秘技観音。

 心の中の暗がりに、周囲の砂の状況が観えた。
 砂の山が崩れる音。風が砂を洗う音。何かが砂の中を這う音。
 師匠の手が閃き、一本の苦無を砂の盛り上がりへと飛ばす。手の中の山蛾の糸を手繰り寄せると、苦無の先端に蛇が一匹刺さったまま戻って来た。
 もう一本の苦無で素早くその蛇の頭を刎ねる。切断面からわずかに染み出した血の匂いを嗅ぐ。
 毒はない。そう判断した。無慮数万という薬草を嗅いで噛んで食らって覚えて来た忍法四大活法の一つである薬活の技だ。
 食糧は手に入る。だが水がない。
 最後の手段として蛇の血を飲むという手があるがそれでは到底渇きには追いつくまい。何よりこの蛇の血を飲んで変な病気になるのが一番いけない。肉は焼けば何とかなる。だが血は濾すこともできない。
 師匠は今度はドウランの中から火打石を取り出した。
 柄に耳を当てたまま、火打石を刃に当てる。甲高い音がした。
 輪のように砂の中に音の波紋が広がる。戻って来る微かな反響を常人を遥かに越える師匠の耳が捉える。
 砂、砂、砂、そして硬い岩。岩、岩、岩。その岩が作る大きな谷の中央を、地中の川が流れていた。
 伏流水。それは決して地上に出ることなく、そして大気中に蒸発することもなく流れ続ける地面の下にある川だ。
 その川の圧力が溜まっている場所。人の見えぬ場所で激流となって流れる水の力が岩盤に抑えられている場所。それが師匠には見えた。

 師匠は砂の上を歩くとその場所の上に立った。
 深い。とても深い。この足下の遥かに下に水が暴れているところがある。
 師匠は大太刀を頭上高く上げた。その切っ先は天空を横切りつつある太陽を指す。射す。刺す。
「終の秘剣迷い星」
 そう呟くなり、師匠は神域の斬撃で大地を斬り裂いた。


 長耳兎は涼しい木陰で一刻ほど待った。
 本来ならあの場所は何の装備も無しで放り出せば余りの暑さで半刻ほどで死ぬ。
 だが古縁流の伝承者はいづれ劣らぬ怪物ぞろいだ。中でもあの本間宗一郎は歴代の伝承者の中でも最強の者だ。だから長耳兎はもう半刻余分に待った。
 今頃は乾いて干からびて、己の頑固さを悔やんでおるだろう。
 もちろん、不殺を銘とする長耳兎に師匠を殺す気はない。ただ自分を殺そうと努めるのを止めて欲しいだけだ。
 古縁流の伝承者を見張るのが自分の十二王としての役目なのだ。その役目を戦国時代から始めてかれこれ五百年は続けている。

 伝承者にも様々な者がいる。そのすべてを長耳兎は見て来た。
 人知を超えた怪物としか表現できない古縁流開祖。たった一人で十二王が集う場に殴り込みをかけ、全ての王を叩きのめしてしまった。
 亥の王を倒し、それでいながら申の王と友達になってしまった藤原藤兵衛。
 ぶらりぶらりと日ノ本すべてを旅して暮らしていた山ノ内藤太。
 一時期行方不明となっていたがまた現れた土井雄三。
 いづれも長耳兎の正体を見破る者の前には姿を現し、話をした。
 最後まで長耳兎を殺そうとした者も多かったが、敵意を見せずに気さくに話し相手になってくれた者もいた。長耳兎の語る日ノ本の歴史を喜んで聞いてくれた者もいた。
 伝承者とは言え様々なのだ。

 さて、あやつはどうするだろう。
 長耳兎は立ち上がった。後ろ足で大地を軽く蹴る。
 神通力縮地を発動する。
 世界が反転した。


 どうどうと水が噴きあがっていた。
 太陽に照らされた空中の飛沫に虹が掛かっている。
「いったい、どうしたことだ。これは」長耳兎は予想もしない光景に絶句した。
 大地がぱっくりと割れ、そこから水が噴出している。周囲にはすでに大きな水たまりができている。
 まさか、あやつ。この大地を割ったのか。
 長耳兎は呆れた。
 でもいったいどうやって。あの大太刀で大地を斬ったとでも言うのか。砂ごと、岩ごと、岩盤ごと。
 何という怪物なのか。
 驚きが一瞬だけ長耳兎の動きを止めた。
 噴き上がる水の柱の中から刀の先端が静かに伸びて来た。その動きがあまりに静かだったので長耳兎は気づくのが遅れ、危うく貫かれて死ぬところだった。
 長耳兎は後ろに十間ほど縮地で跳んだ。
 水の中から現れた師匠が舌打ちする。
「慣れぬ水の中で動きが一歩遅れたか。何という不甲斐なさ。まだまだ儂は未熟なり」
「化け物め」長耳兎が思わず呟く。
「誉め言葉かの?」
 言いながらも、師匠は前進した。
「愚か者め!」長耳兎も跳んだ。
 長耳兎が師匠の体の前に密着するように出現すると間髪入れずに次の縮地を発動する。
 初めて相手にする神通力なのだ。これには師匠も対応できなかった。
 一人と一匹、たちまちにしてどこかへ跳んだ。


 またもや世界が変わった。
 師匠は真っ白な雪の大地に着地する。懐の長耳兎を掴もうとした手はわずかに兎の耳の先端をむしり取ったに終わった。
 離れた場所にまたウサギが出現する。その長い耳の先端から赤い血が滲んでいる。
 古縁流伝承者は指の力だけで崖をよじ登ることができる。その握力は薪を握り潰すことさえできる。その万力のような手に掴まれれば無傷では済まないのだ。
「そなたはここで頭に登った血を冷ますがよい」
 長耳兎は一言だけ言い残すと、後ろ足で地面を叩いて消えた。

「うぬ。またもや逃がしたか」
 師匠はほぞを噛んだ。改めて周囲を見渡す。
 今度の世界は白一色であった。周囲一面雪が積もり、一部は氷が覆っている。それが凍った海であると理解したとき、ここが尋常の大地ではないと理解した。蝦夷地、それとももっと北の大地か。そこにはこのような世界が広がっていると聞いたことがある。
 鋭利な刃物に思える冷気の風が師匠の体を刻む。たちまちにして衣服についていた水が凍り始める。
 如何に厚手とは言え、木綿の小袖一枚で過ごせる寒さではない。
 燃やせそうな物も周囲には見当たらない。
 このままでは長くは持たぬな。師匠はそう断じた。


 今度も一刻ほど待った。
 長耳兎は自分の巣穴の中から顔を出した。
 さすがに今度はあやつは死んだのではないかと思った。自分の信条には反するが、ここまでくれば仕方がない。
 あの伝承者がもっと弱ければ、他に生きる目もあったろうに。
 長耳兎は残念だった。

 こうなると強さとは何だろうと思う。強いが故に強情を張り、結果として死ぬ。そして自分は弱いが故にこのような逃げる神通力を得て、結果として如何なる者も触れえざる境地にいる。
 強さが生きることに結び付かぬなら、なぜあれら古縁流の伝承者は人生を賭けた修行を続けるのか。長耳兎にはどうしても理解できなかった。

 軽く地を蹴り、神通力を発動する。世界が反転して白き冷たき世界へと変わる。
 足の先から冷たさが上って来る。周囲の悪意ある冷気に触れ、ここに長くいれば自分も死ぬであろうとは思った。

 雪の積もった大きな塊が、先ほどの場所にできていた。
 黒い小さな鼻が雪の下から覗いていたのでその正体に気づいた。
 以前に出会ったことがある。それはこの地に棲む恐ろしい真っ白な大熊だ。その大白熊が腹を裂かれて死んでいる。その前の地面には戦国大太刀が一本転がっている。さらに雪に半分埋もれて小さな膨らみがあり、その端から師匠が着ていた服の端が覗いている。
 こやつ、白大熊を倒して力尽きたか。長耳兎は納得した。
 師匠を殺したのは白大熊か、それともこの寒さか。
 そろりそろりと師匠の骸に近づく。そっと前足を伸ばして着物の端を引っ張った。
 ばさりと雪が落ち、着物だけが出て来た。その下にあるのは・・雪の塊?
 反射的に跳んだが遅かった。
 一本の苦無が長耳兎の足に突き刺さった。
 衝撃で前のめりに転がるところに、大白熊の裂かれた腹の下から師匠が飛び出してくるのが見えた。白大熊の内臓の熱に包まれて、全身からかすかに湯気が立ち上っている。
 近づきざまに師匠は手を捻った。山蛾の糸が引かれそれに結ばれた大太刀が師匠の手の中に飛び込んで来る。
「覚悟!」
 師匠の剣が振り下ろされた。
「滅ぶぞ!」
 そう長耳兎が叫ぶのは同時だった。
 ピタリと師匠の剣は止まった。二貫目の重量がある戦国大太刀の刃は長耳兎の体に触れる寸前で微動だにしない。
 ゆっくりと一言一言を区切るように長耳兎が喋る。
「ワシを、殺せば、古縁流は、滅ぶぞ」
 しばし一人と一匹は見つめあった。
「どのみち足を傷つけられては縮地の技は使えぬ。逃げぬゆえにまずは聞け」
 長耳兎は座り込んだ。尻からも強烈な冷気が伝わって来る。
「命が惜しくなったか。長耳よ」
「命など夢のまた夢よ。惜しいものか」長耳兎が吐き捨てる。「だが戦いの渦の中で無意味に死ぬのは嫌だ。このワシにも矜持というものがある。如何なる者をも傷つけず、如何なる者にも傷つけられず。その信念を持つ者が戦いの中で死んで何とする?」
「だがお主は十二王で、この儂は古縁流だ。我らには深い因縁がある」
「因縁か。儂はその因縁が始まった日を知っておる。そちらの開祖がワシら十二王が崇めていた神像を叩き壊した所を見ておる。それが因果の始まりだ」
 長耳兎はそこで一呼吸いれた。
「だがな。あれは午の王がどこかで見つけて来たただの木の像だ。ワシも別に本気で崇めておったわけではない。言ってみれば十二王という獣たちが人間の信仰の真似事をしておったわけだ。
 つまりはただの遊びよ。
 十二王すべてが本気で神を信じておったわけでもないし、中にはワシのように嫌々付き合わされておった者もおる。寅の王なんかはあの遊びが気にいっておったようだが」
 長耳兎の目がくるりと回った。
「元々は寅や午の王どもが人を攫って神像の贄にしたのが悪い。それに怒ったそちらの開祖が十二王全員を叩きのめした。それが真相よ。
 それを恨みに思うなど筋違い以外の何物でもない。
 だからワシは十二王にも加担しなかったし、おヌシたちにも関わらなかった。頼まれて代々の継承者を見張っておったが、その内実を報告したことは一度もない」
「ではなぜ儂に会った?」
 毒気を抜かれた顔で師匠が尋ねた。
「気になる伝承者には会うことにしておる。もしやこのくだらぬ因果の連鎖をどこかで断ち切れるかもしれぬと思うからだ。
 おヌシは迷っておった。だからワシはおヌシに興味が湧いた。それにこの男はどこまで強いのかと確かめてみたくなったのだ」
「害意は無かったと? それを信じろというのか?」
「ワシがその気ならとうの昔におヌシは死んでおるよ」
 長耳兎は指摘した。
「おヌシは砂漠でも耐えるし、氷でも耐える。だがこの世界には空気が無い場所もある。おヌシの剣がいかに凄かろうが、息ができねば死ぬしかなかろう」
「空気がない場所などあるのか?」
 その師匠の問いに、長耳兎は天を指し示した。
「ある。月の上だ。ワシは昔一度だけそこに跳び、危ういところで戻って来ることができた。もちろん二度とはやらん」
 長耳兎はじっと師匠の目をみつめた。
「おヌシ、弟子はおらぬであろう」
「何が言いたい」
「ワシがここで死ねば、もう縮地を使える者はおらなくなる。そうなればどうやって日ノ本に帰る? おヌシ、ここが日ノ本よりどれだけ遠いか知るまい。ここがどこかも知るまい」
「南に向けてどこまでも歩けば帰れるだろう」
「まさか」長耳兎は笑った。「おヌシが知っておるは、せいぜいが蝦夷地までであろう。そして蝦夷地でさえここまでは寒くない。今までにこういう場所に住んでいる人間の話を聞いたことがあるか。ないだろう。つまりはここより南に行くのが如何に困難かを示しておる」
「どれだけ遠くても歩いていればいつかは着けるであろう」
「途中には海がある。凍りついた海は途中で融けて何者も歩いては渡れなくなる」
「では船を作ろう」
「日ノ本よりここまでは船で来ることはできる。だが船で帰ることはできぬ。風と潮の流れがそうできておる。船で帰るならばまずは東の大陸に渡り、続いて南に進み、夏だけの国になるまで歩き、そこから船を出して西に長く航海することになる。軽く見積もってもそれには何十年もかかるだろう。その間におヌシは歳を取り、弟子も作れずに死ぬことになる」
 地面につけたお尻の寒さに耐えられなくなって長耳兎が腰を上げる。
「ワシを殺せば、おヌシは日ノ本に帰れず、されば弟子のおらぬ古縁流はおヌシの代で途絶えることになる。それがおヌシの望みか」
 師匠の目に迷いを見てとってさらに長耳兎は畳みかける。
「おヌシは流派の敵として我ら十二王を滅ぼそうとしておる。だが、ここでワシを殺したとしても、流派がそこで途絶えたのでは本末転倒であろう」
「ううむ」師匠が唸る。
「休戦しようではないか。ワシの足の傷が癒えるまで。癒えればおヌシを日ノ本に連れ帰ってやろう」
「お主を信用できる根拠は何だ?」
「そんなものはない。おヌシがワシの言葉を信じるか否か。それだけだ。決めるなら早く決めろ。ぐずぐずすれば二人とも凍え死ぬぞ」
 一瞬の逡巡の後、師匠は大太刀を引いた。
 地面に転がったままの自分の着物を取り上げるとそれについた雪を払い、羽織る。
「いいだろう。その言葉信じてみよう」
「そうか。ならば手を貸せ。ワシは歩けぬ」
「背負えと言うか」師匠は嫌な顔をした。
「仕方あるまい。それにワシは齢千を越えているのだぞ。年寄りは大事にするものだ」
 しぶしぶ師匠は長耳兎を背中に担ぎあげる。存外にその体は暖かかった。
「よし、次はあちらだ」
 降る雪で遮られる視界の向こうを長耳兎は指さした。
「以前にここに来たときに見つけておいた。あちらに人の集落がある」
「見えるのか?」
「縮地の神通力のおまけのようなものだ。色々なものの方向と位置は自然と分かる」
「便利なものだの」
 一人と一匹は積もる雪の中を歩きだした。雪に残った足跡はたちまちにして降る雪に隠れて消える。



5)

 雪と氷でできた家が存在するとは世の中は確かに広い。
 師匠はそう独り言ちた。北国では雪でカマクラという小さな家を作るとは聞いたことがあるが、実際にこういうものを見たのは初めてだ。
 イヌイット族は見知らぬ者である師匠たちでも歓迎してくれた。
 外より来た稀人は幸運をもたらすと言われているためだ。
 最初は確かに齟齬があった。彼らは鍋に湯を沸かすと、師匠の隣に座る長耳兎を指さしたのだ。これは獲物ではなく友達なのだと身振り手振りで説明するのは大変に骨が折れた。
 最後には彼らもこの珍味を諦め、アザラシの肉で鍋を作ることにした。
 ここは冬の間にイヌイット族がアザラシ猟を行うための一時的な住居だ。三日か四日で目ぼしい獲物を取り終わるとすぐに場所を変える。
 アザラシだってバカではない。何匹かが猟の犠牲になるとすぐにそれを覚えて、人間から逃げるようになる。だから同じ場所で狩りを続けると獲物は取れなくなるためがゆえの絶え間ない移動生活である。
 時期が悪ければ師匠たちは彼らに出会えずにもっと厳しい目にあっていただろう。

 長耳兎の足の傷が治るまで、ここに逗留することになった。
 タダ飯を食らうつもりはないので、師匠はアザラシ漁を手伝うことにした。
 海の氷の上にところどころ空いたアザラシの呼吸穴の横で気配を消してひたすらに何時間も待つのだ。防寒着を着ているとは言え凍てつく風の中では相当に辛い仕事だ。一人につき一つの氷穴が担当である。人が多ければ多いほど広く見張ることができ、結果としてアザラシもそれらの穴のどれかに上がらざるを得なくなる。
 師匠はその点では優秀だった。石化けの技を使ってピクリとも動くことなく待つことができるのだ。吐く息さえ白くはならない。最初はイヌイットたちも待っている間に師匠が死んだと思ったぐらいだ。
 アザラシもこれには完全に騙されて、ここは安全とばかりに師匠の横に顔を出して呼吸を始める。そこを逃さず師匠の手から銛が繰り出されて狙い過たずアザラシを捕らえる。
 たちまちにして大漁である。
 ウサギはアザラシの肉を食べるわけにもいかないので、イヌイットたちが夏の間に蓄えていたわずかな穀物を分けてもらって飢えを凌いでいた。
 ポリポリと音を立てて穀物を齧るその姿は齢千歳を越えているにも関わらず愛らしくも見えた。

 夜は彼らに作ってもらった氷の家の中で師匠と長耳兎は話をした。
「のう、本間殿よ。日ノ本に戻ればやはり剣士を続けるつもりか」
「他にやることもないからの」師匠はぶすりと答える。
「だが今の世は太平の世よ。剣など飾りでしかあるまい。知っておるぞ。古縁流は手裏剣を剣術に混ぜておる。剣術としては最強なれど決して認められることはない。飛び道具は卑怯なりと言われればどこの大名も古縁流を取り入れようとは思うまい。
 それに加えてこの世がふたたび戦乱の世になったとしても、戦場で使われるのは大砲に鉄砲よ。そこに古縁流のつけいる隙があるだろうか」
 長耳兎は痛いところを突いて来た。それは日ごろから師匠が悩んでいることでもあるのだ。
 古縁流は戦国の世にて最強。されどそれよりすでに五百年が過ぎているのだ。
 時代遅れの剣術。いや、剣術自体がもはや時代遅れなのだ。

「流派は大事。だがもっと大事なのは剣の道を究めることよ」
 師匠はようやくそれだけを返した。それに対して長耳兎は前足を突き出した。
「それよ。その道よ。
 その道の先には何がある?
 修羅の道の先はただ己一人が立つ空しき荒野よ。
 見よ、ここの者たちを。これほど寒々しい地に生きながらも身を寄せ合って暖かく生きておる。孤独の中に生きて何になる」
「儂は孤独ではないぞ」
「妻無く、子無く、親無く、孫無く。師匠も弟子も無い。共に仕事する者もなく、行くところも帰るところもない。
 ただあるのは剣のみ。どうしてそれで孤独ではないと言える?」
「儂の傍らには常に剣がある。これが我が家族であり、友である」
「度し難いな。おヌシは」
「ほうっておけ。それに孤独はお主も同じであろう」
 かなり痛い所を突いたようだ。長耳兎はそのまま押し黙ってしまった。
 やがて長耳兎は師匠に背中を向けてボソリと呟いた。
「おヌシも千年生きてみれば分かる。愛するものたちは皆、ワシより先に旅立ってしまうことの意味が」

 毎夜、長耳兎は自分の不殺の哲学を師匠に説き、そして師匠はそれを頑なに拒み続けた。
 話し合いは常に平行線であった。

 その日もアザラシ漁に出た。
 石に化けていた師匠がふと気づくと、周囲のイヌイットたちが大騒ぎをしている。
 石化けを解き、立ち上がる。
 大白熊が氷の上をこちらに向けて走ってきている。
 師匠は傍らに置いておいた大太刀を取ると、刀身に巻き付けておいた布を剥ぐ。
 氷の上を滑るように走る。大白熊の進路の前に出ると、大太刀を振り上げた。
 大白熊も師匠を認めて鉤爪のついた前足を振りかざした瞬間、長耳兎が飛び出して来ると叫んだ。
「殺すで無い! 本間!」
 師匠の手の中で大太刀が回転し、剣の腹を大白熊に叩きつける。
 古縁流参の皆伝技『打鼓天』。相手を切らず、ただ叩き伏せる技。
 強烈な衝撃を頭に受けて脳震盪を起こした大白熊が氷の上に倒れ伏す。一瞬の荒業であった。
 足を引きずりながら長耳兎が師匠の下に駆けつける。
「殺したのか?」
「殺してはおらぬ。寝ておるだけだ」
 ぶすりとした顔で師匠は答えた。大白熊を刀で差し示しながら問いを発する。
「襲って来たのだぞ。なぜ殺してはならぬ?」
「この者には子供が二匹おる。いずれも飢えで死にかけておる。その原因はおヌシだ」
 長耳兎はとんでもないことを言い始めた。
「儂がどうしたと?」師匠が目を剥く。
「本間よ。ワシらはここに何日居座っておる?
 本来はこのイヌイットという部族は一つ所には三日しかおらぬ。獲物のアザラシが人居ることを知り、その場所から逃げるからだ。
 だがおヌシはその優れた技でアザラシを狩り続け、ためにこの辺りにはアザラシがほぼ居らなくなっておる。その結果がこの熊の一家の飢えよ。
 おヌシ目掛けて走ってきたのも襲うためではない。おヌシの横に積み上げてあるアザラシが欲しかっただけなのだ」
「なぜお主にそれが判る?」
「分からいでか。ワシにはこの長い耳がある。他の獣のする話などすべて筒抜けよ」
「神通力は一王につき一つではないのか?」
「誰かそのようなことを話していたかの?」
 質問に質問を返して長耳兎はとぼける。神通力の秘密を師匠に垂れ流すことはしない。長耳兎は十二王にも古縁流剣士のどちらにも与しない。
「とにかくこれはおヌシの因果が成した末の応報よ。少しは慈悲を持て」
 そう言い返すと、長耳兎は近くに積み上げてあったアザラシからまだ凍っていないものを見つけて引き出すと、大白熊の鼻先に置く。
 怪我をしていない方の後ろ足で大白熊の鼻を叩いて気付けをする。
 頭を振り振り大白熊は立ち上がると、長耳兎の目をじっと見つめて、それからアザラシを咥えて去って行った。
 周囲でイヌイットたちが騒いでいる。
 師匠の剣の腕もさることながら、師匠と話をしていた長耳兎の行為を見て、それが獣などではないことに初めて気づいたことの方が大きい。


 その夜は何故か宴会になった。主役は師匠と長耳兎である。
 宴会と言っても酒はでない。この寒さの中では酒は造れぬからだ。代わりにアザラシの肉が捧げられ、村の長老たちが狭い氷の家の中に押し掛ける。
 じきに彼らは長耳兎に何かを訴え始めた。長耳兎はそれをふんふんと聞いている。
「言葉は判るのか?」師匠が訊ねる。
「しかとは分からん。だが相手が言いたいことはわかる」
「神通力か」
 長耳兎は答えない。しばらく続いた長老たちの話が終わると長耳兎は師匠に向き直った。
「彼らによるとワシらは大神ワタリガラス様から遣わされた獣神と勇者らしい」
「ほう」
「それでな、化け物退治を頼みたいらしい」
「ほう?」
「彼らによるとアザラシの化け物らしい。アザラシの中にはたまに化け物アザラシが混じっておって、それに出会うと帰ってこれないという話だ」
「ほう。十二王の中にアザラシはおったかのう?」
「おるわけが無かろう。この世にいる化け物は十二王だけではないぞ。おヌシも知っておろうに」
「うむ。確かに」
 黄金長者や相異坊の頼みで師匠はもう何度も妖怪退治をやっている。
「このところ何年も化け物アザラシによる被害は続いておってな。困っているらしい。どうだ。本間よ。この話受けるか?」
「それは構わんよ。彼らには世話になったしな」
 その一言で己の命をさらりと賭ける。常在戦場。これが本間宗一郎という男であった。
 長耳兎がそのことを話すと、長老連中の顔に喜びの色が浮かんだ。
「で、その化け物とはどこに行けば遭えるのだ?」
「どこでも。一人で氷の上でアザラシ狩りをすると必ず出会うらしい。だから最近では皆でまとまっての狩りしかできぬという話だ」
「いったいどのような化け物だろうか」
「それは判らぬ。出会った者が帰って来ぬではなあ。死体も出てこないらしい」
「まあ、よい」
 師匠は戦国大太刀を手元に引き寄せた。
「さっそく明日から始めるとしよう」


6)

 長耳兎が隣にいても化け物は出るだろう。そう考えて師匠は卯の王を連れて来た。
 教えられたアザラシの狩場に行き、氷の上で一人と一匹は待つ。
 冷たい風が吹く中、アザラシの呼吸穴の横にじっと座る。傍らでは長耳兎が防寒着にくるまって丸くなっている。ウサギの短い毛だけではとてもこの寒さには対抗できない。
「のう。本間よ。あの殺さずの技。打鼓天と言ったかの。あれはただ単に刀の腹で打つ技ではあるまい」
「分かるのか?」
 この兎に剣の素養があるとは思えなかった。
「分からいでか。技を放つとき、聞きなれない音がするでな」
「打鼓天は確かにそうよ。刀の腹で単純に打つだけではない。打つ相手が何かによって刀の腹を指で抑える場所を変える。そうして初めて刀は細かく震える」
「震える力か」
「刀身も太鼓の皮のように震えるのよ。それをうまく使うと打つ力は数倍にもなる。打った相手の体の中に震える力は潜り込み、それをも震えさせる。震えは相手の体の奥深くに浸み込み、内部から弾ける。その結果、体には傷一つ付かなくても開いてみると内臓が破れておる。それが打鼓天という技の本性よ」
「なるほど。古縁流の技は奥が深い。だがよいのかおヌシ。それをワシに教えて」
「構わぬ。長耳殿は誰彼問わずに話すようなことはせぬであろう」
「これはまた信頼されたものだの」
 言いながらも、ぴくりとその長い耳を震わせる。
「これは何だ。今までこんな音は聞いたことがない」
「来るな」師匠も構えた。

 来た。
 ざぶりと音を立てて、氷に開いた穴の中から何かが覗いた。
 アザラシとは見えた。だが色が違う。
 透明で大きなアザラシが氷の穴から上がって来た。それは穴そのものよりも大きく、たちまちにして氷の上にその巨体を乗せた。
 透明な大アザラシ。
 化け物アザラシ。

 冷たい風が吹きつける。大アザラシの体に白い筋が入る。それが薄く張り付いた氷だと認識するまで少し時間がかかった。
「こやつ。水怪か」師匠が呟く。
「いや、水そのものの怪物だ」長耳兎が後ろへ下がりながら見解を述べる。
「恐らく水に気が宿りて変じたもの。水の付喪神だ」
 師匠の剣が閃いた。
 戦国大太刀が化け物アザラシの体に切り込む。抵抗もなくその体が真っ二つに斬り裂かれ、左右に分かれる。
 手ごたえの無さに異変を感じて、背後にいた長耳兎を脇に抱えて、師匠がさらに後ろへと跳ぶ。
 一瞬で元の姿に戻ったアザラシの体から水が噴きだし、最前まで師匠がいた位置を撃つ。
 水柱はそのまま氷の塊へと変じた。
 この寒さでは水の一撃はすなわち致命傷となる。濡れたものはすぐに凍りついてしまうのだ。頭から浴びでもしたら冷たさで心臓が止まってしまう。
「これが元はただの水が化けたものか」師匠が呆れる。
「十二王とて元はただの動物よ。気が変じて神通力を持ち、言葉を喋るようになっただけのな」
 長耳兎を抱えたまま、次の攻撃を師匠は避ける。たちまちにして新しい氷の柱ができる。
 次々と凍る自分の皮膚を振り落としながら化け物アザラシが二人を追う。
「あれに飲み込まれるなよ。飲み込まれれば恐らくは精気を吸われて死ぬぞ」長耳兎が指摘する。
「凍りついても死ぬのは同じよ」
 引くと見せて師匠は前に跳んだ。
 頭上に高く上げた戦国大太刀を化け物アザラシの頭の上に落とす。
「秘技打鼓天!」
 叩きつけた。透明な化け物アザラシの脳天が弾けた。続いてその体も内側から膨らんで丸ごと弾け散る。師匠よりも遥かに大きなその巨体を一瞬で散じさせる。これが打鼓天だ。
「やはり海の水として扱って正解か」
 まだ振動している大太刀を突き出したまま師匠が独り言ちる。
 周囲に飛び散った水はそのまま凍って氷になる。
 長耳兎を背中に抱えなおして、師匠がその中を歩く。
「やったか?」と長耳兎。
 その耳が聳ち、何かを聞き取る。
「いや、まだだ。音がする」
 師匠が素早く大太刀を氷に突き刺して音を観る。
 氷の下を何かが移動している。
「ばらばらにしても死なぬか」師匠は嘆息した。
「ワシらのような動物怪は本体が死ねばそれで気は散じて消える。だがこいつは元々がただの水に気が宿ったものだからな。本体の水が飛び散れば、気だけで動いてまた体を作れるのだろう。となると水がある限りは不死ということになる」
 長耳兎が推論を展開する。
「厄介だの」師匠が呆れた。

 斬れば斬れる。叩けば飛び散る。だが決して死なぬのではどうすれば倒せる?
 難問であった。

「また来るぞ。こいつ、逃げるつもりはないようだ」長耳兎が指摘する。
「負けることがないなら逃げる必要はそもないからな」と師匠。厳しい顔だ。「さて、どうやって滅ぼす?」
「こちらが逃げるしかあるまい」
「三十六計が効かぬなら仕方あるまい」珍しくも師匠が逃げることに同意した。
 古縁流では倒せぬ敵から逃げるのは恥ではない。生きて、強くなって、また戦えばよい。戦国時代から連綿と継承されてきた戦場の哲学だ。

 だが遅かった。周囲に空いている氷穴のすべてから一斉に化け物アザラシの透明な体が噴き出して来たのだ。
 あっという間に周囲のすべてが小山のような水の塊に覆われる。
 小山が師匠を飲み込もうと盛り上がる。
 師匠は跳んだ。だがその跳躍では足りなかった。
 一人と一匹は一気に大量の水に包まれた。塩の味がする海水だ。
 いかん。師匠は思った。水に包まれて足が地につかぬのでは力が入らぬ。
 大太刀を振り周囲の水を切り裂くが意味がない。
 背中の長耳兎が暴れた。その後足が師匠の背中を蹴る。

 世界が反転した。
 化け物アザラシの巨大で透明な体の中から周囲が見えた。
 そこは真っ暗な夜空の世界であった。地面は一本の木も生えてはおらず寒々しくそして白く輝いている。遠くに瞬きもせずに太陽が見える。他に一つ、青い円盤が宙に浮かんでいる。
 真空の中で、たちまちに化け物アザラシの表面が崩れ、凍り始めた。
 師匠の頭の上の水が弾け、宙に噴き出すとそのまま白い氷の粉に変わる。
 長耳兎はもう師匠の背中にはいない。いつの間にか足下深くで溺れている。
 師匠は泳いだ。下ではなく、上に。恐ろしい膂力で使う古式泳法。鎧を着たまま泳ぐための技だ。師匠の体がぐんぐんと上に登る。
 ついに凍りつつある水の表面に到達した。薄い氷を戦国大太刀で突き破り、水の外に飛び出した。薄い氷の膜を足場に真上に跳んだ。
 全身をさらなる寒さと痛みが襲う。初めて知る感覚だった。口の間から空気が漏れる。肺の中が焼けるようだった。
 真空に暴露されながらも師匠は空中で体勢を整える。
 痛みも苦しみも、技の発動の邪魔にはならぬ。そのように訓練してきた。
 打鼓天。空気があったならばそう叫んでいただろう。
 奇妙に体は軽かった。不思議なことに落下はゆっくりだ。
 だが打鼓天の技の本質は剣の勢いではなくその振動にある。
 眼下に見える化け物アザラシの本体。その中でもがいている長耳兎。その真上に大太刀を振り下ろした。
 相手は海水だ。長耳兎の体も海水に近いが、それでも骨と肉と毛皮が違いを生む。大太刀を抑える位置がわずかでもずれれば、化け物アザラシと一緒に長耳兎まで殺してしまう。
 恐ろしく繊細な調整を行いながら化け物アザラシに向けて打鼓天を打ち込んだ。
 強烈な振動が大太刀から化け物アザラシの体の中へ流れこんでいくのが感じ取れた。化け物アザラシを構成する大量の海水の中を衝撃と振動が駆け抜ける。
 化け物アザラシの巨体が一瞬で弾けた。海水が細かい飛沫となって凍りつき、周囲の真空を埋める。その霧の中に長耳兎が一匹立っている。
 ゆっくりと加速された時間の中で、師匠は手を伸ばして長耳兎の耳を掴む。非難の目で長耳兎は師匠を睨むと、月の大地を蹴った。

 世界が再び反転する。
 緑の大地をしっかり踏みしめて、師匠の顔にようやく安堵の色が浮かんだ。
 ここは最初の出発地点だ。
 思いっきり息を吸い込み、それからひどくむせた。肺がずきずきと痛む。
 師匠は地面から放置されたままの刀の鞘を拾い上げると、ようやく戦国大太刀を鞘に納めた。
「長耳殿。あれが月か」
「そうだ。二度と行きたくなかったのに。あそこは空気すら無い死の大地よ」
「あやつは死んだのか?」
「わからぬ。だがあそこには水はないから、体は作り直せまい。それに例え生きていたとしてももう誰にも迷惑をかけることはできまい。あのような所、誰も訪れる者はいないからの」
「そうか」
 戦国大太刀を背中に結わえ付ける。今まで着ていたアザラシの皮の防寒着は脱いで小脇に抱えた。
「長耳殿。傷は治っておったのか。ならば儂を放り出して一人で帰っておればよかったのに」
「連れ帰ると約束したであろう」
「そうであったかの」
「それに話しているうちにおヌシが修羅の道を諦めるかとも思ったでの」
「それは余計なお世話だ」師匠が吐き捨てる。
 長耳兎がそれに答える。
「この頑固者め。さて、ワシは脅威は消えたと村の者たちに伝えてこよう。早く安心させてやらねばな」

 タンタンと音高く足音を立てて、長耳兎は消えた。


7)

 師匠が家に帰ってみると、相異坊が家の床をあちらこちら掘り返していた。畳はすべて上げ、板間も一部剥がしてある。

「これ、相異坊。何をしておる」
「おう、本間か。いやな、お前がここの所帰って来ぬでな。これはもうきっとどこかで野垂れ死にしたに違いない。だから墓の一つでも作ってやろうとこうして穴を掘っておったのだ」
「他人様の家の中に墓穴を掘るヤツがおるか。だいたいそんな所に金は隠しておらぬ」
「ばれたか」
 相異坊は大きく高笑いをした。その表情には全然悪い事をしたという風がない。
「まったく。お前という奴は。まあ、いい。長旅で疲れた。お前の顔を見たら飯を作る気力も失せたわい。どれ。どこかで飯でも食ってこよう」
「酒もつけてくれ」相異坊が相好を崩す。
「ついてくる気か」師匠が嫌な顔をする。
「それだけではないぞ。お前にご馳走してもらう気でもある」
「ずうずうしい」
「何を言う。お前が帰って来ないので気が気ではなかったのだぞ。おかげで飯も酒も喉を通らなんだわ」
 そう言いながらも、相異坊は床に転がっていた酒瓢箪を蹴り飛ばして隠す。
 それ以上は相異坊に取り合わず、師匠は家の外に出た。相異坊もついてくる。小柄な師匠と並ぶと大男の相異坊は頭二つ分ぐらい高い。
 師匠は家の前に生えている木のウロに手を入れるとその中に埋め込んでおいた小判を一枚取り出した。
「ああ、しまった。そんな所にあったのか」相異坊が自分の頭を叩く。
「酒の在処は判るのに金の在処は判らぬのか」
「そりゃあ酒は生きる糧だが金はただの世過ぎにすぎないからな。本気で好きでないものには勘は働かぬよ」
「そのようなものか」
「そのようなものだ」
 二人は町へ向けて歩き出した。
「相異坊よ。儂は月に行って来たぞ」
「それは本当か」
「本当だ。月で餅をついてきた」
「ほう。それは酒でも飲みながら是非とも聞かせて貰わねばな」
 柔らかな風が吹く。自由に息を吸えることに師匠は心の中で密かに感謝した。
「長い話か?」相異坊が訊く。
「長い話だ」師匠が答える。

 長い冬は終わりだ。やがて春が訪れる。