古縁流始末記銘板

師に逢うては

1)

 いつもというわけではないが、師匠と三郎そして兵庫之介の三人で纏まって修行をすることもある。
 修行と言っても内容は単純だ。木刀に見せかけた重い鉄刀をただひたすらに振る。それだけだ。回数は一万回。それが終わればまた一万回。それが終わればまた一万回。これが朝の修練の最初の一つ。それらを深夜まで飽きることなく繰り返し、毎日の日課とする。
 もちろん筋肉は悲鳴を上げ、骨はきしむ。その痛みを抑えるために秘伝の薬を含み、壊れた心と体はその場で癒す。これについていけない者は早々に体を壊し、古縁流を去ることになる。
 古縁流の恐るべき斬撃はこうした狂気とでも言うべき地味な努力の末に生まれる。

 鉄刀は最初はゆっくりと振る。筋肉の連携を覚えるためだ。そして徐々に速く振るようになり、最後は目に見えないほどの速さで振り回す。
 これを称して稲光の速さである雲耀と呼ぶ。
 三郎と兵庫之介の素振りと、師匠の素振りには明確な違いがある。師匠の素振りは目に見えない速さであることは同じだが、一切音がしないのだ。
「お師さま。どうして素振りの音がしないのですか?」
 三郎は真っすぐに訪ねてみた。三郎はこういうときまったく物おじしない。
「主らは刀を振っている。儂は風を切っている。その違いだ」
 師匠はさらりと言ってのけた。
 使っている鉄刀は素材が鉄なだけで形は木刀と同じだ。百歩譲って刀で風が切れるとしても、刀と違って厚みがある木刀でどうして風が切れるのだろうと三郎は思った。修行を続ければいつの日にか自分にもできるのかは疑問であった。それはまた兵庫之介も同じであった。

 素振りが終わると三郎と兵庫之介は汗だくで地面にへたり込んだ。その横で師匠は涼しい顔で立ったままだ。この小柄な老人のどこにこれだけの力があるのかと二人は呆れた。
 やがて休憩がてら二人で雑談が始まり、どんな動物が怖いのかという話になった。
「オレは猿が怖い」兵庫之介が言った。無意識に自分の頭をさする。
「猿が怖いとはまた奇妙な」とこちらは三郎。「それがしは熊かな。いや、熊では物足りない。唐の国にいるという虎と戦ってみたい。以前に見た絵の虎は実に恐ろし気だった」
「それならば唐まで出かけないといけないな。貧乏武士にはとてもとても無理な話だ」兵庫之介は遠い目をした。
 例え上級武士であっても幕府の御用でも無ければ海外への渡航は禁止されている。他愛もない夢話ではあったが、決して叶うことがない望みでもあった。
「お師さまはいかがですか? 恐ろしいと思う動物はいますか? 例えば龍とか」
 それを聞いて師匠の眉が少し上がった。龍ならもう斬ったと小さく呟いたがそれは二人には聞こえなかった。
 少し躊躇った後に、二人の問に師匠は短い一言で答えた。それを聞いて二人は自分たちの耳を疑った。

 う・さ・ぎ。

 そう聞こえたのだ。





 加藤兵庫之介が草野三郎の両親を惨殺し、家宝の刀を奪って逐電して早一年。三郎は仇討ちの旅の途上にあった。

 妻の妙を遠い親戚に預けての独り旅である。元より家禄など無いに等しい下級武士なれば、旅費の当てなどあるわけもなく、行く先々で半端仕事を受けての長旅となった。
 このようなときに役に立つのが古縁流の手裏剣術である。よそ者の立ち入りをうるさく咎めない山を見つけると分け入り、その手裏剣の技で飛ぶ鳥や地の獣を取ってしのぐのだ。特に毛皮の取れる動物などは数をまとめるとそれなりの旅費の足しになる。
 その日も三郎は獣道を疾風のように駆け、先々で出会う生き物を狩っていた。猪のような大物が取れれば上々、大概は兎のような小物である。もしや子連れの場合は殺さず見逃すこととしていた。
 日が落ちる前に十匹は取らねばと思い、三郎は藪の中を見渡した。

 元より古縁流の手裏剣術は奥義の域に達している。百発百中の手裏剣を逃れることのできる兎はいなかった。
 師匠の手裏剣も見事なものであった。山中を早駆けしながら山蛾の糸を結んだ苦無を投げる。ひと時も足を留めることなく、貫いた獲物を手元に引き寄せる。その手際の見事さは恐るべきものであった。三郎はその域には遠く及ばない。
 三郎のやり方は少し違う。山駆けの途中で手折った木の枝をたわめ、丸い輪を作ってある。兎を見つけるとこれをその頭上に投げる。そうすると風を切る葉擦れの音が鷹の羽音に聞こえるのか、ウサギはその場にうずくまり固まる。そこに三郎の手裏剣が飛ぶという算段である。
 この輪による足止めが無ければ、ウサギは早々に巣穴へと逃げ込む。さあそうなると槍で突こうにも入り組んだ巣穴では歯が立たず、結局は諦める羽目になる。
 師匠ならば兎の巣穴の上を木刀でとんと突くと、それだけで兎が狂ったようになって跳び出して来る。何度も試して見たが三郎には出来ぬ技であった。お前には殺気が足りぬとよく師匠に怒られたものだ。

 日が傾き始め、三郎がもうこれぐらいで切り上げて里に戻るかと考えていたころ、一際大きな兎を見つけた。長い耳に赤い目の犬ほどの大きさがある兎が、倒木の上に乗って直立している。その瞳が自分を見つめているような気がして三郎は立ち止った。野生動物の感覚は鋭い。もちろん三郎の存在など当の昔にこの兎は察知しているだろう。
 三郎は枝の輪を投げた。それはしゅるしゅると風を切り、兎の上を舞った。さあいまだ。三郎は狙いすまして手裏剣を投げた。
 兎の姿が消え、手裏剣は空を切った。三郎は驚いた。兎を仕留め損ねるとは。そこまで自分の腕は鈍ってしまったのか。いや、それよりも今の兎の動きが三郎の目には見えなかったことのほうが驚きだ。神速で振り下ろされる剣を見ることができるその目が兎の動きを捕らえられなかったのだ。
 倒木の反対側から兎の顔が覗いた。間髪を入れずに三郎の第二の手裏剣が飛ぶ。これも呆気なく外れた。
 ううむ、馬鹿な。二発も外すとは。思わずそう独りごちた。師匠がここに居たならば、またあの柳の枝で鞭打たれていたことだろう。
 またもや叢の先から兎が覗いた。じっと三郎を見つめている。
 古縁流手裏剣術秘投帰り雲。今度は五本の手裏剣を同時に投げた。一本を避けようとすれば残りの四本に捕らえられるはず・・であった。だがそれさえも外れた。ふたたび兎の耳だけが草の上に出て、素早く走り去る。
 むう。三郎が刀を握って藪に飛び込んだときにはすでに兎の姿はどこにもなかった。



 三郎が次にこの兎に出逢ったのは、さらに一年後であった。

 この頃には加藤兵庫之介は行く先々で人を殺していた。その多くは裕福な商人であったが、中には幕府のかなり上の方の役人もいた。下手人は皆目分からなかったものの、三郎はその惨状を一目見て分かった。いずれも古縁流の斬撃で斬られていたからだ。
 護衛がついている相手をわざわざ狙い、一刀の下に切り殺す。まるで下手人が己の力を楽しんでいるかのように。
 兵庫之介。お前はいったいどうしてしまったのかと三郎は悲しくなった。
 惨劇の場を後にしたとき、目の前の道端に兎が立っているのに気が付いた。あのときと同じく、瞬かぬ赤い目が三郎を見ている。
「お前はあのときの兎。ここであったが百年目」
 三郎は袂に手を入れ手裏剣を取り出した。
「止めよ。三郎。その手裏剣でまた儂を打つつもりか」
 兎が声を発し、三郎は驚きのあまりにのけぞった。
「人語を発するとはおのれ妖怪め」
「妖怪ではない。儂は王だ」
「王だと?」
 最初の驚きが過ぎると動物との会話を普通にこなしている自分に気づき、三郎はまたもや驚いた。
「王だ。儂は十二の動物の一つ、卯の王たる長耳と言う」
「その長耳とやらがそれがしに何の用だ」
「警戒するでない。お主と少し話をしたくてな」
「妖かしと話をする気はない」
 三郎は身構えた。以前に妖かしのネズミに引きずり回されてひどい目に遭ったことが思い出された。あのときは危うく地獄に堕とされるところだったのだ。
「そう言わずについてこい」
 それには応えず、三郎は手裏剣を投げた。兎の姿が消え、もう一つ先の叢の中から現れた。
「無駄なことを止めよ。儂は千年を生き、神通力を持っておる。その力は縮地。そなたが如何な速さで手裏剣を投げようが、儂はそれよりも早く遠くに逃げることができる。如何なる者も如何なる武器も儂を捕らえることは叶わぬ。それゆえに儂を傷つけることができるものはこの世には居らぬ」
「それは試して見ねばわからぬことよ」
 三郎は刀を抜くと素早く前に出た。
「愚かな」
 兎が跳んだ。その一瞬、刀を走らせた三郎は確かに兎を捉えたと思った。次の瞬間、周囲の光景が転じ、強烈な光の中に三郎はいた。あまりの明るさに目が眩む。
「これは?」
 三郎は周囲を見渡した。どこまでも砂、砂、砂の光景が広がっている。丘でさえ砂でできている。そして激烈な日差し。光に当たった肌が焼けて痛いし、空気は異常に熱い。
「儂の縮地にお主を巻き込んだのよ。ここは日ノ本の国を遥かに越えた遠い異国の地」
「なんと!」
「さあどうした三郎。ここにお主を置いて儂はまた遠くに行くぞ。お主の剣とやらがいかに優れていようとも、ここでは水一杯得ることはできまい」
 三郎は黙り込んだ。兎の指摘が正しいことを認めたからだ。地平線の彼方までただ砂ばかりで、緑の草一本すら生えていない。ここにいれば遠からず、三郎は日干しになる。
「わが力ではどうにもならぬか。せめてここに師匠がいてくれれば」
 師匠は三郎が出立してからすぐに死んだと聞き及んでいる。
「それでもどうにもなるまいよ」兎は指摘した。「お主の師匠とは昔やりあったことがある。その時も儂はあやつをここに連れて来た。儂が今までに見た内で一番強い男であったな。後にも先にも儂の体に傷をつけたはあの男だけよ」
 そこで初めて思い出した。その昔、師匠が兎が怖いと言ったことを。あれは冗談では無かったのか。
「ええい、それがしを元居た所に戻せ」
「戻すは良いが、一つ質問に答えてもらおう」
「質問だと?」
「三郎よ。そなた、古縁流と十二の動物についての話を師匠から聞いておらぬのか?」
「知らぬ。そのようなこと聞いたことはない」
「そうか。では儂が代わりに教えてしんぜよう」
 長耳が後足を地に打ち付けた。
 また光景が瞬いた。周囲はいつもの日ノ本の光景に戻る。そこは森の中の空き地のようで、頭上から静かな木漏れ日が振り注いていた。
「この方がずっと楽だな」長耳が言った。
「さて、随分と昔になる、あるところに神様がいた」

 悪い神様だった。
 ある年の始めに神様は配下の動物たちを呼び集めた。呼ばれたのは十二の動物の王たちであり、それぞれの王が一年ごとに世界を任されることになっていた。その順番は捧げた生贄の数で決まるという話であった。
 ところがその集会のど真ん中に飛び込んで来た侍がいた。侍は神様の額に一撃を食わせてその場を立ち去った。
 その侍こそが古縁流の開祖である。
 それ以来、十二の動物の王たちは古縁流の歴代の伝承者との血で血を洗う闘いを始めることになった。
 これぞ、古より始まりし縁なり。

「お伽話だ」三郎は断じた。
「儂は千年を生きて神通力を得た兎だ」長耳が答えた。「儂もその場に居た」
 それを聞いて三郎は押し黙る。千年も生きる存在がいてたまるかとの思いが、その無言には詰まっていた。
「それ以来、古縁流の免許皆伝者は代々この言い伝えを教えられる。古縁流は人間を斬るための剣術に非ず。神や王、そして妖しを斬るための剣術なりと、そう教えられるのだ」
「だがそれがしはお師さまからそれを聞いてはおらぬ」
 長耳は少し考えてから言った。
「もしやお主の師匠はこの古縁流を自分の代で終わらそうと考えていたのでなかろうか」
「そうなのか」
「とくとは分からぬ。だがこの長きに渡る闘いにより、十二の動物王もほとんどが死んだ。そして古縁流の伝承者たちもまた動物王たちにより殺されてきた。今や残る古縁流伝承者はお主とあの加藤のみ。もういい加減、この古き縁も忘れるべきときではないのか」
「ならばそれがしを先ほどの砂漠に捨て置き、加藤も貴様の神通力にて遠くへ捨てればよい。それで古縁流は絶えるではないか」
「儂は神通力を持つとは言え兎だぞ。お主は今までに兎が他の生き物を殺すと聞いたことがあるか」
「ないな」
「それが答えだ。儂は誰も傷つけない、そして誰にも傷つけられない。ゆえに儂こそはこの殺し合いの輪廻、修羅の道からもっとも遠い場所にある生き物なのだ。それは儂の信念であり、誇りなのだ。今更それを翻す気はない」
 長耳は周囲を見渡した。
「さて、以上が事の次第だ」
「それをそれがしに告げて何とする?」
「お前を知りたくてな。来てみたのだ。自分が何に巻き込まれているのか知らないのは辛かろうと思ってな。なにぶん儂はお前のことを本間殿から頼まれておる」

 長耳が後ろ足で地を叩いた。
 次の瞬間、三郎は街道にただ一人で佇んでいた。

2)

 また一年が経過した。仇の加藤兵庫之介はまるで三郎を揶揄うかのように、三郎のすぐ目の前を逃げ続けていた。

 そのときの三郎のしのぎは薪割りであった。
 宿場町の全ての薪割りを三郎一人で引き受ける。一件当たりで貰える手間賃はわずかだが、それでも数をこなすのでそれなりの金額になる。

 そしてこれは良い修行にもなった。
 古縁流の薪割りは普通の薪割りとは少しだけ違う。斧の代わりに鉄でできた偽木刀を使う。そしてこの偽木刀を振り下ろし、薪に触れる直前で止める。すると触りもしないのに薪はパキリと小さな音を立てて、二つに割れる。
 これは古縁流斬撃の極みに達したことを証明する試技でもあった。薪を割っているのは剣気である。

 一渡り薪割りを片づけた後で、粗末な夕餉を貰い、あてがわれた三畳ほどの汚い部屋で寝転がった。
 今夜は星が綺麗だなと障子を開けて夜空を見ていると、ふと影が差した。
 長耳兎が窓の枠の上に立っている。
「三郎。まだ仇討ちを諦めぬか。お妙がお前の帰りを今か今かと待っておるぞ」
「お妙のことを知っているのか」
「おう、知っておるぞ。儂のこの長い耳は伊達ではないからな」
「ならば加藤の居場所を教えてくれ。そうすればさっさと仇を討ってそれがしは家に帰れる」
「それはできぬ。お主にはまだ因果が足りぬからのう」
「意味が分からぬ」と三郎。
「それが分かったときに仇に追いつけるだろう」
「あくまでも教えてはくれぬのだな」
「ワシにも色々と事情があってな」長耳兎はとぼけた。
「役に立たぬ御仁じゃ」
「役に立たぬのはお主の方ではないか。そうやって仇討ちなどに人生を費やす意味がどこにある。剣の道を究めることに何の意味がある」
「そうは言われてもそれがしはこれ以外の道を知らぬ」
「他の道を探してもいないのだから、新たなる道を知らぬのも道理」
「剣を究めることがそれほど悪いことか」
「剣を究めることがそれほど良いことか」
 むう、と三郎はつぶやいた。口では齢千歳に達する長耳に勝てぬ。いや、他の手段でも勝てぬのだが。
「強い相手を求めるは修羅の道。その目的はより強い相手を倒すことであり、それが済めばまた次の敵。さらにはまた次の敵と続く。決して終わりがなく、何も得られず、最後はその道の果てに屍を晒すばかりとなる。それはいったい何のためだ」
「何のためと言われても困る」
「答えに窮するようなことに人生を賭けるな。お主にはもっと気を遣わねばならぬことがあろうに」
 長耳兎は正面から三郎を見つめた。その瞳の色の深さにあらためて三郎は気づいた。
「それがしは師匠のような強い男になりたいのだ」
「確かにお主の師匠は強かった。歴代伝承者の中でも最強であったろう。だがその強さは何のためであった? 三郎、答えてみよ」
「それはきっとそなたら十二の王を倒すため」
「そちらの開祖が神様の額をポカリとやらねばそもそも起こらぬ争いであったな」
「だがそれは正義であったのであろう。少なくとも開祖様にとっては」
「まあ確かに悪い神様であったよ。我ら配下にとってもな」
 一瞬話題が途切れた。
「では聞くぞ。三郎。お主がそもそも古縁流に惹かれねば、加藤との縁が生ずることもなく、お主の父母はまだ生きていたであろう。これをどう思う」
「だが、それがしが強くなることは父の願いでもあった」
「それは違う。お主の父の願いは偉い侍になること。つまりは地位だ。だがこの太平の世では武士の出世の道であるはずの戦乱というものがない。だからこそ、お主の父は虚しき望みと知りながら、武士の道を説き、お主に強くなれと言ったのだ。いつの日か来る戦乱の世を期待して」
「そんなことはあるものか」
「すでに知っておるはずよ。三郎。今の世に真の侍と言える者はおらぬ。武士は腐り果てておる。お主が求める道の前にも後ろにも誰もおらぬ」
「お師匠さまは真の侍であった」
「それもすでに死に果てたではないか」
 三郎は押し黙った。
「修羅の道は辛いぞよ。三郎。そしてその先には何もない。強さを誇ることにも何の意味もない。よく覚えておくがよい」
 長耳兎は消えた。



 さらに一年が経過したとき、長耳兎はまたもや現れた。
 山中のことである。三郎は深山に入り込み、珍しい薬草を取っていた。薬屋にも売るし、自分でも薬を作って売る。古縁流では稽古の際に薬活の技を使う。薬を飲みながら、体が悲鳴を上げるような激しい修行をするのだ。それがここでも役に立っている。
 陽だまりの岩の上に長耳兎は寝そべって三郎の様子を伺った。すでに三郎には兎を襲う気は無くなっていた。
「まだ仇討ちは止めぬのか。三郎」
「ここまで来て止められるものか」三郎は返した。手にした薬草を背中のカゴへと放り込む。
「業よの。忘れれば幸せになれるものを」
「父母の仇を忘れて得る幸せなど無い」
「そなた、それほど親想いであったかの?」
「それがしについて貴様は何を知る」
「多くのことを。歴代の古縁流の伝承者のすべてを儂は見て来た。そなたが古縁流に入った日からこれまでのすべても儂は見てきた」
 三郎は押し黙った。黙々と叢の中の薬草を探す振りをする。
「修羅の道を歩む覚悟ならば、父母のことなど忘れるがよい」
 三郎はその言葉を無視した。
「修羅の道を歩む覚悟ならば、友のことなど忘れるがよい」
「加藤は仇だ。友ではない」
「それはどうかな」
「どういう意味だ」
「すでに旅に出て四年。それなのにどうしてお主は加藤に追いついておらぬ?」
「加藤の動きは素早い。いつもそれがしの先を読む」
「そうではあるまいよ。お主の心の中には、相手に会いたい気持ちと相手に会いたくない気持ちが渦巻いておる。それは加藤も同じで、要は二人とも迷っておるのだ」
「何を迷うというのだ」
「出会いたい。だが出会えば生き残るのはただ一人。出逢った瞬間に相手を失うのだ。お互いにそれが怖いのだ。つまりは二人とも修羅にはなり切れておらぬ」
「長耳殿。深読みのし過ぎだ」
「さてさて、己の心の内が分からぬのは当人たちだけか」
「兎に人の心の何がわかる?」
「ところがな、千年も生きると何もかも良く分かるようになるのだ」
「戯言よ」
 三郎は腰を伸ばした。薬草を探す振りをするのは止めだ。
「修羅の道を歩むならば、妻のことなど忘れるがよい」
 今度の長耳の言葉には三郎の肩がぴくりと動いた。
「愛する者を持つことは己を弱くすること。大きな弱点を持つこと。修羅の道を歩む者が己を弱くしてどうする」
「妙なら親戚に預けた。それに妙のことをそれがしは忘れた。それがしはもう誰も愛してはいない」
「それはどうかな。分からぬのは当人のみよ」
「長耳殿。どうしてそこまでそれがしに構う?」
「そなたは古縁流の伝承者。そして儂は十二の動物の王の一人。構わぬわけには行かぬのだ」
「迷惑なことだ」
「それはどうかな。三郎。もう一度、自分の心を覗いてみるがよい」
 長耳兎は消えた。

 どうしてあの兎はそれがしを放っておいてくれないのだろう。三郎はそう思った。



 仇討ちの旅に出てより五年目。加藤兵庫之介の消息はぷっつりと途絶えた。
 もしや加藤は死んだのではと三郎は気が気でなかった。そんなことになればすべてを捨てての五年間の旅が無に帰してしまう。
 焦りと共に歩む三郎の道の前に、長耳兎が立った。
「三郎」
「なんだ」多少気が立っていた三郎はぶっきらぼうに答えた。
「お前の妻、お妙は病気だ」
「なに!」
「早く帰ってやるがよい。病気は相当重いぞ」
「そんな。いったいどうして」
「お妙は預けられた先で散々な目にあっておったよ。碌な食事も与えられずに朝から晩まで働きづくめ。体を壊すのも当然だ」

 おのれ。三郎の頭に血が上った。あやつら。親戚の顔が目に浮かんだ。お妙は元々、天涯孤独の身の上だ。預ける先がなく仕方なく頼んだ結果がこれか。

「帰るか?」長耳兎が尋ねた。
 しばらくの沈黙が落ちた。やがて三郎はぽつりとつぶやいた。
「帰れない」
「愚か者めが!」
 初めて長耳兎が怒鳴った。兎とは思えぬ声だった。
「お主がそこまで愚かとは思わなかったぞ。三郎。やるべきことを見誤るな」
「兎に何がわかる」
 長耳兎は向こうを向いた。
「わからいでか。儂は千年生きておる。死に別れた伴侶も子も大勢おった。これだけは決して慣れるものではない」
 後ろ足で地面を叩く。長耳兎の姿は消えた。

 長耳の放った叱責が三郎の頭の中にいつまでも木霊していた。


3)

 季節は春から夏へと移り変わり始めていた。

 大白虎の毛皮と引き換えに殿から頂いた金子で当代最高と言われる町医者に頼んだにも関わらず、お妙の病状は一向に改善しなかった。

 親戚の家の扉をけ破るようにして取返してきたお妙。腕に抱えると驚くほど軽かったその体はますますやせ細り、深い死相がその顔に浮かんでいた。
 三郎の必死の薬作りも昼夜問わぬ看病も功を奏しなかった。もしやお師匠様が生きていれば、何か役に立つ薬を作ってくれたやも知れぬが、それは叶わぬ望みであった。
 三郎は縁側に団子を置き、障子を開け放した夜空に満月を映していた。
 お妙は殊の外、中秋の名月の祝いが好きだった。それをこの時期にやるのは、秋までには妙の命は持たぬと医者に言われていたからだ。三郎は何も言わなかったが、お妙もまたそのことは分かっていた。
 すすきが欲しかったな。三郎はそう思った。満月の光の中、三郎に持たれかかったまま静かな寝息を立てているお妙をそっと抱き上げると、奥の座敷へと運び、布団に横たえた。
 夜風が入らぬように襖を閉めると、三郎は一人縁側に戻り、悲しみに耐えていた。
 どうしてあのとき、長耳兎の言を取り入れてお妙を迎えに行かなかったのか。あのときならばまだ間に合ったやもしれぬ。自分を駆り立てたのは意固地な愚かさか、それとも己の内面を満たす業ゆえか。
 月が陰ったように思えた。満月の光を背景にして、塀の上に立つその姿は長耳兎だった。長耳兎は次の一跳びで三郎の前に立つ。
「三郎。月見とは風流だな」
 それには答えず、三郎は居住まいを正すと、長耳兎の前に深々と首を垂れた。
「何の真似だ。三郎」
「師への礼を取らせていただきます」
「師だと?」
「我に三つの師あり。一つはわが父母にて我を産み育ててくれた命の師なり。一つはお師様にて我が剣の師なり。そして一つはあなた様にて我が人生の師なり。ゆえに弟子としての礼を尽くさせていただきます」
「儂を師と申すか」
「その通りです」
「ふむ」長耳兎はつぶやいた。「人の師匠になるというのも悪くはない気分だの。まるで我が子が戻って来たかのような気分だ。宗一郎の言うたこともあながち嘘では無かったのう」
 長耳兎はたんたんと後ろ足で地を叩いた。
「さて、三郎よ。そなた古縁流はどうする。その無くした左手ではもはや満足に戦えまいが、誰かに技を継ぐのか?」
「継ぎませぬ」三郎は即答した。「古縁流はそれがしの代にて終わります」
「そうか。ついに古の縁が尽きるのか」
「みな死にもうした。師匠も兄弟子も」
 そしてお妙もすぐに、という言葉はぐっと嚙み締めた。
「こちらもほとんどが死んだ。今や地上に残っている十二の王はもはや儂以外居らぬ」
「虚しい戦いだったと思いますか」
「虚しい戦いだったと思う。そして儂らの代ですべてを終わらせねばならない」
 長耳兎は三郎の前に歩いてくるとその前に身を横たえた。
「さあ、儂を殺せ。三郎。儂の首を斬れ」
「何をおっしゃいます!」
 三郎は驚愕した。
「この戦いはお主か儂のどちらかが死なねば片が付かぬのよ。なれば儂が死のう。儂は長く生き過ぎた。このままでは儂は未来永劫決して死ぬことがないだろう。だが生きることにはもう飽き飽きした」
「だからと言って死ぬ必要がどこにあるのでしょうか」
「あるのだよ。三郎。儂は人には言えぬ多くのことを知っておる。この世界はい汚く生にしがみ付くには値しないものなのだ。
 ああ、儂は長く生きたよ。子供も孫もすべて儂より先に死んだ。連れ合いも老いて死んだ。
 だがそれほど生きて儂は何者にも成れなかった。そしてこれからも何者にも成れぬまま時を過ごすだろう。死すらも儂には追いつけぬ。そうやって永遠に生きるのだ。
 何という悲しさ。何と言う虚しさ。儂は生きながらにして空っぽなのだ。
 さあ、三郎。我が弟子よ。儂を殺せ」
「お師匠さまにはまだまだ教えていただきたいことがあります」
「それでは大事なことに間に合わぬ。よいか、三郎。儂を殺した後、その体を焼いてお前の妻に食べさせるのだ。千年を生きた神通力を備えた兎の肉。如何なる病とて治すことができよう」
「なんと!」
「これが儂が自分の弟子にしてやれる最初で最後の贈り物だ。慈悲こそが世界を前に推し進める真の力なのだ。
 何者でもないこの儂の命で他の命を繋ぐことができる。この儂の弟子の妻を救うことができる。何千年と生きてきてもこのような機会はただの一度もなかった。そしてこの機を逃せばもう二度と訪れまい。
 そして輪廻の輪より外れたる我が魂は再び輪廻の輪へと戻る。儂は故郷へと帰るのだ。これほど心休まることがあるだろうか。
 儂の慈悲、心して受け取るがよい。三郎」
 長耳兎は目を閉じた。
「さあ、早く」


 修羅の道は捨てたはずなれど、涙と共に振るうその剣技に一糸の乱れもなかったは、古縁流免許皆伝草野三郎、真にもって天晴なり。
 師に逢うてはこれを斬るのが古縁流の本懐なれば、その覚悟、まさに見事なり。