ラング&ファガス:狼の指輪銘板

5)エストリッジ教授

 自宅の奥の部屋に設えられた専用の巨大な椅子にゆったりと体を預けると、ラングは手元の水晶の塊をいじくりまわしていた。
 水晶塊の正体は遠距離通話器である。ファガスの作った特注品であり、対となるもう一つの水晶塊とだけ反応する。その片割れはいま、魔法考古学のフィールドワークに出ているエストリッジ教授が持っている。
 調整した水晶塊をテーブルの前の印をつけた位置に慎重に置くと、ラングは起動の呪文を唱えた。水晶塊が低いうなり声を出し始め、白く塗られた壁の上にちらちらと光が踊り始める。
 これも特大の湯飲みに、ベスがお茶をたっぷりと注いで持って来る。
 通信器の魔法が自分の片割れを見つけだすのにはしばらく時間がかかる。何といってもエストリッジ教授が発掘作業を行っている古代遺跡は相当離れた場所にあるのだ。
 ラングは椅子にもたれかかると、白壁に絵が映るのを待った。
 ラングの家そのものは、街から少しばかり離れた所にある森の中に作られている。
 ファガスもそうだが、ギルドに所属しているような本格的な魔術師の類は、町中に居を構えることは希である。これは魔術師と呼ばれる連中の多くが、偏屈で変わり者であるという事実ばかりではなく、魔術を行う際の危険性のためである。
 たとえば上級魔術師が使役するような精霊の群れを、下級魔術師が召喚することは可能である。だがそれらを完全に制御することはできない。その結果、街が丸ごと一つ、炎の精霊によって滅ぼされるということも、考えられなくはない。
 そのために魔術師たちはどんなに有名な者でも、街中に実験室を作ることは禁止されている。街に家族の住む家を構え、山の中の作業場にまで毎日往復している魔術師さえいるほどだ。
 それでも敢えて、禁を破って町中に屋敷を持っているのは、魔術師ギルドの支配者たち、すなわち光のコリント、闇のスボーク、そして黄昏のアージャンの三人だけである。これは高度に政治的な判断の下、もし魔術師ギルドが王国に背いた場合には、彼らを人質に取れるようにとの意図で許可されたものである。彼らの屋敷のすぐ近くには、警備の名目で監視塔が建てられていて、王国軍の精鋭部隊が常駐している。もちろん、その真の目的は、いざというときの魔術師たちの捕縛だ。王国と魔術師ギルドはお互いに依存しているが、また同時に反目しあう存在でもある。
 魔術師として独立したときに、ラングが手に入れたのは、丘に囲まれたやや窪地になった場所だ。周囲の丘に対しては窪地とは言え、全体としてはやや小高い場所にあるので、決して水捌けは悪くはない。ラングはこの場所が奇妙に気に入っていた。
 ラングとしてはこじんまりとした家を建てたつもりではあったが、その体のサイズに比例して、他人から見れば巨大な家となってしまっている。
 白壁の上の映像が安定すると、そこに老年に差しかかった男の顔が現れた。細身の男でもの静かな知性がその顔の上に浮かんでいる。皺ができかけている顔の下側は、灰色がかった短い顎鬚で覆われていて、髪は豊かだがこれも短く刈り込まれいる。着ているのは魔法遺跡発掘隊の標準制服だ。軽快な動作ができるように作られた簡単な上着にズボン。その表面に各種の魔法装甲が張りつけてあるのが印象的だ。
「エストリッジ教授。聞こえますか?」ラングは声を出した。
 目の前の男の顔に笑みが浮かんだ。
「ああ、ラングか。感度は良好だ。そちらの調子はどうだ?」
 水晶塊の振動音が治まり、絵が安定する。水晶塊が自分の半身との完全なる共鳴状態に滑りこんだ証しである。
「それがちょっとご相談したいことが」
 ラングはこの間の満月の夜に起きたことをすべて話した。
 魔法大学の教授であり、かつまた同時に魔術師ギルドにおける徒弟制度の師匠でもあるこのエストリッジ教授のことを、ラングは完全に信用していた。
 エストリッジ教授は極力話の腰を折らないように、ときどき相槌を入れるだけで、静かに話を聞いている。
 もの静かな知性と、揺るぐことなき意思の強さ。そして学問への尽きることなき愛情。それがラングが下した教授への評価である。将来、このような人物になりたいとラングに思わせたのは、人間族の中では、エストリッジ教授ただ一人であった。
 すべて聞き終えると、魔法の映像の向こうで、エストリッジ教授は自分の灰色の顎鬚をなでてみせた。
「奇妙な話だ。その中でももっとも奇妙な点は、ニーチャムの魔法経済則をファガスが突破したことだ。ラングよ。きみが知っているかどうかは知らないが、経済法則というものは、驚くほど魔法の法則と密着しているものなのだ。いわばこの二つの関係は、世界の物理の根本と言ってよい。いかにファガスの物作りの腕がよかろうとも、そうそう簡単にはこの法則を突破することはできないはずなのだが」
 ファガスもラングも共にエストリッジ教授の弟子であったのだから、ファガスという人物についても、エストリッジ教授は熟知していた。
 ファガスは魔法道具作りに関しては天才だが、魔法原理学の天才というわけではない。理論そのものの応用はうまいが、新しい理論を打ち立てるほどの能力はない。そうエストリッジ教授は判じていた。
「そもそも、無から有を生み出すなどということが可能なのでしょうか?」ラングが疑問をぶつけた。
「確固とした前例はないな」エストリッジ教授は即答した。「しかし、有から有を産み出した例はある。ウロボロス・リングについては知っているな?」
 ラングは頷いた。
 ウロボロス・リング。魔力の生成と消費について論ずるマナ工学の基礎である。
 エストリッジ教授の片方の眉が上がった。ラングの背後に見えるベスの表情を鋭く読んでみせたのだ。
「ベス。いい機会だから、ウロボロス・リングについて説明して見なさい」
 優しいが、ごまかしようのない厳しさをこめて、エストリッジ教授は命じた。
「あの、その」しばしあわててから、ベスはぺろりと舌を出してみせた。
「ごめんなさい。マナ工学はブロンズベロー教授の授業だったので」
「全部さぼったのだな」白壁の画像の向こうで、エストリッジ教授はため息をついてみせた。
 ヴォネガット魔法大学の実質上の支配者であるブロンズベロー教授と、新入生であるベスの間で起きた大騒動については、同じ大学の教授であるエストリッジもよく知っていた。
 それがラングをターゲットとしたベスの策謀の結果であるとは、当人以外の誰も知りはしなかったが。
 女弟子の顔を絶望の表情で見つめてから、ラングは簡単にウロボロス・リングの説明をした。
 ウロボロス。お互いの尻尾を呑みこむ形の二匹の蛇で構成された、無限循環を表すシンボル。ミッドガルド界を取り巻く超のつく巨大怪物蛇のヨルムンガンドも自分の尻尾を咥えているが、こちらは現実の存在。それに対して、怪物ウロボロスは想像の産物だ。
 それゆえに、ミッドガルド界の魔法を成り立たせている基礎である魔法に対して、ウロボロスの名前が与えられた。それはギルドの魔術師たちにとってさえ不思議な魔法であり、いまだよく理解されていない現象でもあったからだ。
 このミッドガルド界の魔法のすべては、マナと呼ばれる魔力を消費して行われる。マナはすべての場所に存在する。それは土の中にも、水の中にも、大気の中にも存在する。
 魔法を使えば、その周囲のマナは消費される。消費されたマナは、ウロボロス・リングにより補充される。ウロボロス・リングは目に見えないほどのミクロのレベルで動作する魔法で、ミッドガルド界すべてに偏在する。その目的は物質変換と自己増殖。
 この世のすべての物質は、ウロボロス・リングの魔法の働きで、中間物質とマナへと分解される。この中間物質は、さらに分岐物質と呼ばれる物に魔法的に変化する。その後、さらに二段階の過程を経て、最初の物質へと再変換される。こうして魔法が一巡りした結果、産み出されるのは元の物質と少量のマナ。
 ウロボロス・リングの魔法とは、永久機関の魔法なのだ。それがぐるりと一巡りするごとに、差し引きで少量のマナが産み出される。こうして産み出されたマナは、さらなるウロボロス・リングを作るのに費やされる。
 この広いミッドガルド界のすべてが、こうして増殖したウロボロス・リングによって満たされている。ひとたび飽和状態になれば、ウロボロス・リングは安定して、有限量のマナを無限に産み出し続けることになる。
「有から有だ」ラングの説明の後に、エストリッジ教授はもう一度頷いた。
「もし、そのドラウプニルという名の指輪が、超高速で動作するウロボロス・リングであれば、自分と同じ指輪を作り出したとしても不思議ではないな」
「始祖問題」ラングがつぶやいた。
 厳かに、エストリッジ教授も頷いた。
 疑問の表情を浮かべたベスに答えるかのように、魔法の通信器の向こうでエストリッジ教授は口を開いた。
「いいかね。ベス。我々はウロボロス・リングが存在することは知っている。だがそれがどのような形で組まれている魔法かについては知らない。だが単純な事実が一つある。ウロボロス・リングが存在するためにはマナが必要だ。だがそのマナを作り出しているのは、ウロボロス・リングなのだ。さあ、どちらが先に存在していたのか、わかるかな?
 マナがなければ存在できないウロボロス・リング?
 それとも、ウロボロス・リングがなければ存在しないマナ?」
 しばらくの間、ベスは黙っていたが、降参の印に両手を上げてみせた。このところ、自分は降参してばかりだと、ベスは心の中でひそかに思った。ひょっとしたら魔術師の弟子としてラングの下に潜りこんだのが間違いだったのかもしれない。家政婦協会か何かに登録して、ラングの下に派遣されるべきだったのだ。
 エストリッジ教授は、テーブルに両肘をついて、手を組むとその上に顎を載せた。
「そうだとも。それこそが始祖問題なのだ。もちろん、満足が行くような答えは誰も出していない」
 どこからともなく、小さな叫び声が聞こえた。ラングはそれが、自分の家の壁の上に投影された魔法の映像の向こう、エストリッジ教授の背後から聞こえることに気がついた。
「そしてもしかすると、この金の指輪の魔法こそが始祖問題に解決をもたらすかもしれない」
 ラングは気を取り直して、後を続けた。
「もし解決できれば、素晴らしい大手柄になりますね。魔法学会の『偉大なる魔法学者』リストに名前が残るかもしれない」
「おお、どうしたことだ」画像の向こうでエストリッジ教授が天を仰いだ。
「わたしの弟子の一人が、良く知っているもう一人の弟子のような言葉を口にしているぞ」
 部屋の照明がもう少し強ければ、この大男の顔が恥ずかしさで真っ赤になっていることがわかっただろう。
「すみません。教授。馬鹿なことを言ってしまって」ラングは謝った。
「構わんよ。むしろきみはそのぐらい欲というものをみせたほうがよい」
 エストリッジ教授はさらりと言ってのけた。その背後でまたもや叫び声が上がる。
「教授。さきほどから気になっているのですが」ラングはおずおずと尋ねた。
 ああ、とつぶやいて、エストリッジ教授は背後を見た。そこには大型テントの内側の装飾が見える。テントの入り口は閉まっていたが、その周囲の隙間から攻撃型魔法独特の光が流れこんで来ていた。
「なに、たいしたことではない。遺跡発掘につきもののいつものあれだ」
 小さな爆発音。そして何者かの、いや、何物かの奇妙な鳴き声。
「今回の発掘は穏やかだよ。いまはちょっと騒がしいが。警備員もまだ二名しか死んでいないし、予算も十分に残っている。そうそう、きみが言っていたフェンリル伝説のことだが、今回の発掘品の中に、それについて言及した資料が混じっていたな。現在それについて解読中だ。次に連絡するときには、もっと詳しいことが報告できると思う」
「フェンリルですか?」
「そう、フェンリルだ。わたしの見るところ、これは何かの年代表のように思えるのだが」
 そこまでエストリッジ教授が話したところで、テントの入り口の垂れ幕が外側からの風でめくれあがった。ラングの目に、一瞬だけ発掘現場の絵が見えた。
 緑の鱗も鮮やかな竜の姿が、荒野の中に立ち上がっていた。炎がその体の表面を無数に覆っている。ラングにも見覚えのある、魔法の炎だ。青の衝撃波がさらにその炎の上を切り裂く。王国軍が使っているものと同じ衝撃魔法だとラングは見て取った。空気を鉄のように堅くして、相手にぶつける魔法兵器だ。
 テントの垂れ幕が戻る。すべての光景が遮断された。
「おっと、どうも誰かがわたしを呼んでいるようだ。ではこれで失礼するよ」
 エストリッジ教授の手が伸び、たったいままで映像を映し出していた壁が元の白へと戻る。
 ラングは緊張を解いて椅子にもたれかかった。今回の魔法遺跡発掘も大勢の死者を出す結果に終わるだろうという予感に包まれて。