ラング&ファガス:狼の指輪銘板

エピローグ

 大きくて節こぶだらけの足が、アスガルドの大地の上に開いた魔法の穴の上に降りた。
 穴の中に吸いこまれていたロキ神の意識が戻る。夢想を中断されて、ロキ神は顔を上げた。
 髭面で赤ら顔をした大きな神が、ロキ神を見下ろしていた。
「ロキよ。こんなところでお昼寝か? よっぽどやることがないと見える」
 その声は雷鳴を思わせる。
 ロキ神は、雷神トールの足を見つめた。魔法の穴は不安定だ。『平らげる者』トールに踏まれたのならば、それはもう消えてしまっただろう。
 いま自分が見たのは幻の一つであったと、ロキ神は悟った。現実という名の幻の一つだ。このアスガルド界もまたその一つ。ファガスが作った貪欲なる指輪のドラウプニルは、このロキ神がいるアスガルド界には降って来なかった。
 虚空と混沌の中には、無数の並列世界が存在する。サガを歌う吟遊詩人の数だけ、それらの世界は存在するのだ。
 いずれが現実か、幻か、いったい誰に判断できよう?
 またそれを決めることに、いったいどれだけの意味がある?
 ロキ神は体を起こすと言った。
「トールよ。それならば、きみの館に招待してくれよ。樽一杯の酒ぐらい、奢ってくれればうれしいな」
 何も知らないトール。魔法の穴を、その足で閉じたことにも気づいていない。ロキ神は、ぼんやりとそう考えた。愚かで、優しくて、力強い神。単純でまっすぐで、そして楽しく生きている神。自分にはないものを持っている、憎むべき親友。
 そのトール神はロキ神を引き起こしながら答えた。
「それは無理というものだ。このあいだの事件で、シフを怒らせてしまったからな。彼女の目の届く範囲には入らないほうが無難というもの。だがエーギルの館なら、いつでもエールは涌いているはずだ。ちょっとばかり、遠出と行くかな」
 堂々たる体格。腰に吊るしたミョルニルという名の魔法の戦槌。陽にさらされて色のついたその背中を見つめながら、ロキ神は彼の後について歩きだした。
 あらゆる世界と、あらゆる時代と、あらゆる狂気の集う、このアスガルドの地において。ロキ神は、親友たるトール神の背中を見る。
 親友であった。そして、親友であり、やがては不倶戴天の敵となる、その友を。
 ロキ神は、背後を見る。魔法の穴のあったその場所を。
 過去も現在も未来もすべて入り交じり、世界は渦と円環を成す。無数の可能性は、無数の虚無と入り交じる。その中を走るのは、運命という名の秩序。混沌は秩序の友であり、また同時に宿敵でもある。
 自分の息子の腸で岩場に縛られて、毒蛇の涎にてその身を焼かれるのは、また別のとき、別の場所での話だ。だがそのロキも、このロキも、すべては同じロキなのだ。魔法の穴の中のロキもまたしかり。
 定めは、人も、神も、みな一様に縛りつける。ロキ神とても、その僕に過ぎはしない。神々の王たるオーディンでさえも、運命の女神たちの支配からは逃れられない。そして運命の下では、いかなる可能性もすべては幻か夢にすぎない。動かぬ氷の中に閉じこめられた世界では過去も未来もその意味を失う。
 友を滅ぼすその策謀を、友と語らうその時その場所で、企てる。これこそがロキ神の宿命。アスガルド界で親友であるトール神の足下で寝転がっているときも、ミッドガルド界ではその破滅を画策する。わずかな望みとは言え、運命を変えることができるかもしれない、その悪あがきのために。

 運命たるウルドはその糸を紡ぎ、存在たるベルダンディはその糸を計り、必然たるスクルドはその糸を切る。この世のすべては運命の女神ノルンたちが創り出す。
 そしてその糸は、世界という大きな樹を、織りあげるのだ。