ファンタジー短編中編銘板

剣の夜、微笑みの月:はぐれ者

(胸に開いたは空虚の穴。寒い。体中の血が流れ出て行く)


 五歳の時には家を蹴り出された。今の今まで信じていた親の突然の裏切りに傷ついた顔の俺に親父は笑いながら言った。そろそろ自分で餌を取る歳だ、と。俺の必死の視線に親父の後ろにいるお袋はただ黙っているだけだった。涙を流しながら見つめる俺に、続けて親父は言ったんだ。俺たちには涙は似合わねえ、と。
 親父の顔は笑っていたが、目は氷のようだった。もし家に入ろうとすれば何の躊躇いもなく殺されるだろう。今や幼い俺の唯一の保護者となった勘がそう俺の耳に囁いた。
 それ以来、俺は家には帰っていない。寝ぐらは廃墟の中に見つけた。夜になればうっかりと窓を閉め忘れた店に忍び込んで食った。人並み外れた俺の目と耳がその助けになった。確かに自分で餌を取る年齢には達していたわけだ。
 親父もお袋もくたばったのだろうか。今では顔さえも覚えていない。


(俺の心臓は。俺のハートはどこだ)


 最初に大人になったのは十二の歳だ。夜空高くに煌々と輝く満月の上った夜。不思議な予感に貫かれて、俺は体の中の煮えたぎる血潮を静めるために、寝ぐらにしていた崩れかけたビルの屋上に登ったのさ。
 空には無数の星に賛美されて誇り高き月が上り、冴え渡った夜に孤高の輝きを見せていた。白銀の月の光の中に立ち、そして俺は悟った。俺が本当は何であるのかを。
 月は無尽蔵の魔力を惜し気も無く大地へと注ぎ、そして俺は瞳から流れ込んで来るその力に酔いしれる。
 喜びと共に俺は強き牙を得た。体の上を這い回るざわめきは美しくも長い毛を産み出し、うねる蛇を思わせる鋼鉄の筋肉が柔な人間の筋肉と置き替わる。それまで何も知りはしなかった。夜の闇がいかに温かで優しいのかを。
 激しい快感と共に俺は叫ぶ。解き放たれた俺の魂を祝福して。
 そして俺は月の光が支配する荒野へと狩りに出た。崩れかけたビルと、生きることを失った人間達のさ迷う荒野の中へと。
 俺は自分というものをやっと理解した。俺は本来孤高の生き物なのだと。


(血の流出と共に俺の体から力が抜け、力が抜けると共に逆変身が進行する。毛が無くなり、顎が引き込まれる。狼から人間へと否応も無しに引き戻される)


 初めて食らった人肉の味と喉を流れ落ちる血の匂いは年月が経とうとも忘れはしない。
 牙の間で砕ける獲物の骨の甘美な感触も。不思議な事に最初の獲物の顔は覚えていない。引き裂かれたズボンの裾から突き出た千切れかけた足は覚えているのに。
 月が曙の光に負け、空の優しき闇が色あせる頃、魔力を失った俺の体は逆方向に変身し、素晴らしき天使の翼は俺から失われる。そして俺は失意の街へと堕とされた。楽園の記憶を持ったまま。
 目が覚めても罪悪感などは微塵もありはしなかった。そんなものは人間達のものだ。そして俺は荒野に生きる者。
 人狼。
 呪われたる宿命を持つ者。
 俺に取ってはそれは呪いでは無かった。いや、全ての人狼にとってもだ。
 地上を我が物顔に歩く気取った人間達も、林立する無表情な建物も、所詮は全て幻にしか過ぎない。満月の夜に現れる荒野こそ、この世の本当の姿。そしてその荒野を走る狼こそ、この世の真の支配者なのだから。
 次の満月の夜だけを待ち望んで、俺はうす汚れた格好で街のゴミ箱を漁る。警官達に棒で殴られながら。そいつらの顔を心に刻みながら。やがて必ず訪れる満月の夜での邂逅を心待ちにして。


(咳と共に血が喉に詰まる。残り少ない血が。俺の心臓はすでに無い。銃弾に吹き飛ばされた。どうしてヤツにこんなことができたのか判らない。エサのくせに。ただの肉の塊のくせに)


 おかしいったらありゃしない。
 満月の晩にあいつのパトロールの番が回ってくるまで、そう待つことはなかったぜ。パトカーが通り過ぎる前に、店で怪しげな振る舞いをして路地裏に逃げ込む。まんまと引っかかったあいつが飛び込んでくる。
 本来なら二人一組で来るはずだが、俺の姿を見たあいつは一人でやってきた。警棒を振りながら、さあこれから楽しいお仕置きタイムだと、口笛を吹きながらな。
 確かに相棒がいちゃやり辛いよな。自分の歪んだ性癖を全開にするのは。
 最初にあいつの左の膝を砕いた。崩れ落ちたあいつから警棒をつかみ取り、目の前で叩き追ってやった。悲鳴を出せないように喉を潰し、それから月の光を本格的に浴びて、あいつの目の前で変身してやった。
 人狼。闇と恐怖が結晶した姿へ。
 あいつの腰が抜けたのは笑えた。もっとも立ち上がろうとしても砕けた膝では無理だっただろうが。必死に両手でいざって逃げようとする。そんなあいつを俺は掴んで引き戻した。口を大きく開け、伸びた牙をたっぷりと見せてやる。これから自分がどうなるのかを教えるために。
 恐怖に歪んだ顔。無意識に流れだす涙。これほど死に近づいたのは初めての経験だったろう。そんな中でも拳銃を取り出したのは褒めてやる。狙いは無茶苦茶だったが。それでも俺の胸に三発命中した。安堵の表情を浮かべたあいつの前で、俺の胸に開いた穴はたちまちにして塞がった。
 当然だろう? 俺の変身はそもそも体が変形するんだぜ? 穴なんか当然のように塞がるってもんさ。
 最後の気力を振り絞って、あいつは俺の頭に一発ぶち込んだ。それで弾はおしまい。あいつと来たら、引き金をいつまでも引いていたよ。
 いや、実を言うと俺も焦った。頭に穴が開いたら記憶なんかどうなるのかと思った。結論から言えばどうにもならなかったがな。俺の頭の傷も塞がり、そして楽しいお食事タイムの始まりだ。
 片腕づつ引き千切り、あいつの目の前で食べた。もっともその時点で死んでしまったがな。しまったなあ。腕を折るだけに留めて、生きたまま腸を引きずりだしてやるんだった。
 あいつの食い残しはマンホールに投げ込んだ。どぶネズミのような野郎だったから、お似合いの墓場だ。
 頭を撃たれても何ともなかったので、さしもの俺も不思議に思って調べたね。ホームレスでも図書館は入れてくれるので、狼男に関する文献を漁った。その内、ある秘密に気が付いた。狼男は吸血鬼とペアで語られることが多いってことを。
 俺は仮説を立てた。人狼は吸血鬼の一種で、その秘密は血にあるんじゃないかってな。
 人間は血管の中を血が流れる。人狼は血の外側を血管が覆う。つまり人狼は血が本体で、その周囲に纏っているものはただの仮の皮ってこと。だからこそ、人狼に噛まれた者は人狼になる。
 俺が言いたいのは、人狼の場合は物事を考えているのは血で、脳みそではないってことさ。だから頭を撃たれても意識に障害は生じない。
 ということは血を流しすぎさえしなければ俺は不死身ってことだ。
 その日を境に、俺は派手に生きることにした。


(くそっ。俺の服の隠し場所はまだか。はやく普通の人間の振りをして群衆に紛れなくては。背後に点々と俺の血の跡が残っている。月の光を浴びて、魔力で青く光る俺の血が。これではヤツの目を欺けない)


 あの女が悪いのだ。俺の住んでいる教区の三人の尼僧ども。麻薬患者の多いこの地区は、尼僧会が仕切っている。男の神父だと、麻薬患者は恐れて教会に近寄りもしないからだ。
 その尼僧は、教義を心より信じ、神を深く愛していた。まるで善意が全身から滴っているかのような極めつけの馬鹿だ。
 もっと悪いことに、あいつはこの俺に目をつけた。ゴミを漁っているこの惨めな様の俺に。
 彼女は俺を立ち直らせることを神の愛の表れとしたがった。俺がどれだけ嫌がっても、俺の周りを嗅ぎ回り、俺の生活を覗き見し、俺と話をしたがった。
 神の道へと導くために。
 挙句の果ては満月の晩にこっそりと出かける俺の尾行と来た。なんて迷惑な女なんだ。
 だから俺は彼女を始末することにした。
 ヤクを手に入れて人気の無い隠れ家に向かう振りをして、彼女を誘い出した。注射器を射す直前にまるでいきなり降臨した天使のように現れて、罪深い行いを諭すつもりだったのだろう。
 本当に極めつけの馬鹿だ。俺が人狼で無かったとしても、その状況では命が危なかっただろうに。尼僧の服を着ていれば自分は無敵だと信じ込んでいた。
 俺が月の光の下で変身したときの彼女の顔ときたら、今思い出しても笑える。
 恐怖と後悔に引き攣った顔を見ながら、俺は鋭い鉤爪を使って尼僧服を引き裂き、下着を剝ぎ取った。それから剥き出しとなった柔らかな白い下腹に顔を近づけた。
 彼女と来たら俺の行為を勘違いしていたな。信じられるか? 何と濡れていたんだぜ。
 その無防備な下腹に俺の牙を埋め込む快感ときたら、堪えられないものだった。ようやく自分が何をされているのかを理解して、彼女は叫んだ。叫んで、叫んで、叫び続けた。
 馬鹿だよな。こんな人気の無い廃墟で叫んだからと言って、誰が助けに来るものか。
 彼女は俺に食われながらも神へ助けを求めたが、神とやらは俺を止めようとはしなかった。
 たぶん神も彼女にはうんざりしていたんだろう。
 命ある最後の瞬間、泣きながら彼女が漏らしたのは「ママ」だった。笑えるぜえ。俺にはそんなものいなかったからな。
 尼僧の残り二人も食い殺した。次の満月の晩とその次の満月の晩に。大の大人三人分はさしもの俺でも一晩では食い尽くせないからな。
 言わなかったかな? 俺は食い物は粗末には扱わない主義なんだ。
 最後の一人になったときは尼僧はもう夜の外出なんかしなかったがな。警備を頼まれた警官が張り付いていたが、俺が尼僧を攫うのは防げなかった。縛られて俺に運ばれている最中の彼女はお漏らしまでして、俺の食欲を誘ってくれた。


(くそっ。どうしても胸の傷が塞がらない。ヤツめ。銀の弾丸なんか使いやがって。
 狼男に対する敬意はいったいどこにいった?)


 教区から三人もの尼僧が消えて大騒ぎになったのはさすがにまずかった。
 大変にまずかった。
 以前に他の地区から来た人狼が忠告した通りだ。人間たちの注意を引けば、死ぬ羽目になるってな。でも俺はその忠告を聞かなかった。
 その人狼は俺の縄張りを奪いに来たのか、それとも派手にやっている俺に忠告に来たのか。そのどらかも知れないし、どちらでもなかったのかも知れない。
 俺より弱い奴の言葉なんか考慮に値しない。そう思ったからだ。
 そうとも、満月の晩に行われる人狼同士の決闘で、そいつは俺に負けて食われちまったからな。そいつの忠告と同じく、ひどく硬くて不味い肉だった。


(俺は膝をついた。もう歩けない。今や完全に人間に戻った俺は一糸纏わぬ裸だ。だが目的のブツはすぐそこだ。俺は古い木箱の下を探り、拳銃を取り出した。そうとも、あの警官の野郎が持っていたものだ。もしものときのために取っておいたものだ)


 そうだよ。最後のターゲットは尼僧の後を継ぐべく新しく教区に来たあの神父だ。何だかそれが正しい行いのような気がしたから。
 大失敗だった。
 あいつは教会の中で待ち構えていた。銀の弾丸を詰めた銃と銀の大きなナイフを持って。尼僧たちの死体は跡かたなく始末したつもりだったが、手首を一つ食い残してしまった。警察が回収したそれは調べられ、あいつはそこから俺の正体を察した。
 まったく。プラスチックの袋に手首を保存するなんて、何て罰当たりな野郎どもだ。


(もう逃げられない。俺は観念して後ろに向き直った)


 神父が近づいて来る。人狼である俺の動きを避けてナイフで切りつけるその素早さよ。とても人間技とは思えない。
 こいつは人狼の噂に出てくるバチカンの秘密部隊かそれに関係した奴だ。人間怪物妖怪怨霊、どれも問わず殺すプロだ。
 くそっ。しくじったぜ。

 満月は俺の上に上り、尽きせぬ力を俺に与えてくれるが、俺にはもはや抵抗する術がない。
 俺の心臓は砕かれてどこかに行っちまったから。
 撃ち込まれた銀の粒子は俺の体を駆け巡り、容赦なく俺の力を奪っていく。
 だがまだ勝負は終わっちゃいない。ここでヤツを殺せば、銀に汚染された胸の肉を切り取ることができる。完全に治るには長い時間がかかるだろうが、それでもじきに俺は完全に復活できるだろう。
 ヤツさえ倒せれば。

 満月が照らすステージの上で俺と神父は対峙した。
 神父の銃を持った腕がゆっくりと上がる。
 殺るなら今だ!
 俺は隠し持った拳銃を抜き出すと、瞬きする間に全弾を撃ち尽くした。ほぼすべての弾が神父の体に命中した。胸に六発、頭に二発。その体が揺れ、崩れ落ち・・なかった。
 神父は元のように立ち上がると、その手にした銃を二発撃った。俺の右手が吹き飛び、続いて左足に大穴が開いた。
「あなたに開けた三つの穴は死んだ尼僧たちの分です」
 神父は銃をしまうと、手袋を嵌めた手に銀のナイフを持ち直した。大きな銀の首切りナイフ。人狼を殺すためのもの。
「最後の一撃は私の兄の分です」
「兄? 何のことだ。お前、どうして死なない。あんなにたくさん体に穴が開いたのに」
「ずいぶん前に他の人狼が忠告に来たでしょう。あれが私の兄です」
 俺は神父を見つめた。神父の顔の穴が塞がりかけている。
 くそっ。こんな職につく人狼もいるのか。こうと知っていれば、俺も銀の弾丸を用意しておけばよかった。
 神父が近づいて来る。お喋りの時間は終わったらしい。俺の死は確定した。

 だけどな、いい人狼の生だったぜ。
 いっぱい殺したし、たらふく食った。もう満腹だ。
 人狼を呪われた生だと言う奴もいる。人狼であることを悔やんでいるのが普通だと。呪われた宿命。悲しき怪物。
 そんなの全部まやかしだ。もし生まれ変わりというものがあるのなら、俺はもう一度人狼に生まれ変わってやる。
 神父の銀のナイフを持った手が上がる。祈りの言葉がその唇から漏れ出る。神なんか、この世界のどこにもいないのに。

 天空には美しき満月が輝いている。ここは俺の王国だ。そして俺はここの王なのだ。