御伽噺異聞銘板

人魚姫

 一足ごとに千の針が刺すかのよう。
 それはまるで怒らせたハリセンボンの背中の上を歩くかのように。人魚姫の足の柔らかい部分と言わず、堅い部分と言わず、貫き通す針の痛みでした。

 冷たい石造りの城の中を、苦痛と恐怖に苛まれながら、人魚姫は進みました。
 時は夜。地上の見知らぬ夜は嵐の空に恐怖の文様を描き、海より来たこの小さな純粋な存在に対する悪意を、少しずつ少しずつ募らせています。
 人魚姫に馴染みなきその足の、歩みの一つ一つは、海の底では決して知りえなかった炎の苦しみで彩られています。
 それでも人魚姫は進み続けねばなりません。
 この夜が明けて、朝日の最初の一矢が地上に届いたとき、もしまだ地上にいれば、人魚姫の命はそこで終わるのです。無数の血の色の泡となり、やがては乾き果てた黒の染みとなって、この古き陰気な城を形作る岩の表を、深き闇の色の怨念で飾るのです。

 ああ、何と言う恐ろしき運命なのか!

 しかもそれを避けるためには、愛しき人の命をその手で断たねばならないとは。
 これで何度になるのでしょう。人魚姫は己の運命を呪いました。
 その恐ろしい運命は、あの嵐の海での王子との出会いから始まっています。
 人魚姫は過去の回想へと逃げ込みます。そこには海の底には無かった様々な感情で彩られていました。

 一目で落ちた恋の苦しみと、王子に愛されることを望むときのその甘やかさを。
 恐るべき海の魔女との、心臓を鷲掴みにされるような恐怖の中での取引を。
 そして成就することのなかったこの一夜の残酷さを。


 一足ごとに千の針が刺すかのよう。
 繰り返される苦痛は、少しもその勢いを衰えさせません。地面に触れるたびに、足の内側を炎が駆け上るかのようです。

 人魚姫がいま右手に持っている魔法の短剣は、海の魔女の秘蔵の品です。
 あの懐かしい人魚姫の姉上たちが、その美しい髪と引き換えに海の魔女から借りて来たものです。何か大きな魚の骨から海の魔女がその自らの鋭い歯を使って削りだしたと噂される短剣は、白く鈍く輝くその外見からは想像もつかないほどの切れ味を持っています。
 姉の一人から短剣を受け取るときに、誤って自分の肌を刺してしまったほどです。見えぬ傷から吹き出した人魚姫の冷たい血は、地面に落ちる前に泡となって消えてしまいました。
 夜が明ける前に愛しい王子様の胸を切り裂き、その血を浴びなくては、やがて人魚姫も泡となって溶ける定めです。
 王子の体を流れる熱い人間の血潮を人魚姫の足にかければ、それは元の魚の尾へと変わるはずです。そうすれば人魚としての魔法の力も甦り、あの懐かしき深き海の底へと戻ることができるのです。
 人間の男に恋したことなど忘れて、家族の中で幸せに暮らせるのです。

 王子が死んでくれさえすれば。


 一足ごとに千の針が刺すかのよう。
 弾ける痛みは増すことこそさえあれ、弱まることはありません。海の中では決して感じることの無い体の重みが、慣れぬ足の骨をきしませます。大地の愛撫たる重力の一撫でごとに、耐え切れぬ苦悩が湧き上がります。

 人魚姫が左手に掲げた魔法のランプは、魔法の短剣と同じく海の魔女の持ち物です。
 それを恐るべき海の魔女から借り出すのに、もう一人の姉上が綺麗に揃った美しい歯を差し出さねばなりませんでした。
 魔法のランプはこの世に二つと無いものです。海の底にひっそりと息づく青珊瑚から削りだした殻の中に、これも深い海の底に暮らすホタル魚からそのたった一つの瞳を奪い取り、それを日の射さぬ海の底よりももっともっと暗い呪文により封じ込めたものです。
 その青珊瑚の牢獄から放たれるのは、ホタル魚の瞳から漏れ出す怪しき光のみ。幽鬼のごとく淡く光るその瞳を見た地上の者は、抗うすべもなく眠りに落ちる。それこそが今の人魚姫に必要な魔法でした。
 王子が婚約者と眠る塔へとつながる回廊を、どれだけ大勢の衛兵で守ろうとも、この魔法の光の前には、どうしようもありません。青き光に包まれた途端、ただ地に倒れ伏してひたすら静かな眠りをむさぼるのみ。
 幸せな眠り。
 苦痛なき眠り。
 もしそうでなければ、きっと彼らは人魚姫の顔に浮かぶ苦悩の蔭りをみて、その限りない悲嘆に巻きこまれたことを、神に呪ったことでしょう。
 魔法のランプが惜しげもなく撒き散らしている慈悲深くも優しい眠りは、今の人魚姫には与えられぬものでした。


 一足ごとに千の針が刺すかのよう。

 あの嵐の晩に、出会わなければよかったのです。
 沈み行く船の中に、渦巻く波の底に、暗き冷たき闇の中に、溺れかけた王子を残しておけばよかったのです。

 そうすれば。

 でも実際にはそうできなかった。暗い瞳を抱えたまま人魚姫は自問自答しました。最初は人間の顔を見たいという単なる興味で死にかけた男の顔を覗きこんだのです。
 そして一度でも、その顔を覗きこんでしまえば、もう恋を止めることはできません。
 熱い血の人間の男に恋をした、冷たき血の魚の女。
 だけどその恋の激しさは、地上のどんな女性にも負けはしません。
 それも真実。だけどたった一つの誤算は、人魚姫が王子を愛したように、王子もまた人魚姫を愛しているに違いないと思いこんだこと。
 確かに人魚姫は王子の命の恩人です。でもそのことを王子は知らない。ましてや見知らぬ女性が王子の下に来たからといって、すぐに恋に落ちるわけもない。
 その上に婚約者がいたとなれば。

 その結果がこれです。
 左手には魔法のランプ。右手には魔法の短剣。冷たき暗き石の廊下を、王子と姫君との婚礼の褥へと向かう、苦悩に顔を歪めた美しい女性。染み一つない優雅で素晴らしき足には苦痛の炎がまとわりついています。王子の心臓からあふれ出る真っ赤な血のみが、その足を魚の尾へと変え、人魚姫にふたたびあの安らぎに満ちた海の底での生活を返すのです。

 なんという悲劇!
 人魚姫の頬に一粒の涙がこぼれました。
 できることならば、魔法のランプの光に惑わされぬ衛兵の一人でも残り、彼女を押し止めてくれたならば、この決断も容易くできただろうに。人魚姫はそう自分を呪いました。
 死それ自体は恐ろしくはありませんでした。
 お城の宴の席上で、夢にまで見た愛しい王子の顔を、希望の光の中に捉えた瞬間に、傍らに寄り添う婚約者の存在を知った。そのときすでに人魚姫の心は死んでいたのですから。
 でも、地上を恐れていた姉上たちが、海の上から魔法の短剣とランプを差し出したとき、自分が宿命に囚われたことを理解したのです。
 愛するその人を己が手で刻む。地上の者と海の者は決して交わってはならないというその宿命を。


 一足ごとに千の針が刺すかのよう。炎とトゲは足を貫き、電光のごとくに骨を駆け抜けます。

 ついに人魚姫は、王子と、いまやその妻となった王女が二人して眠る塔の最上階へとついてしまいました。
 その部屋の扉の前で寝ずの番をしていたお付の侍女たちが、ランプの放つ青の光の中であっけなく崩れ落ちます。
 扉の鍵はひとりでに解け、ことりとも音を立てずに、扉が左右に開きます。
 そこに浮かび上がったのは、激しい情交の後で疲れ果てて眠る王子と王女の姿。
 二人の裸を隠しているのはわずか一枚のシーツのみ。
 人魚姫は王子の横に立ちました。魔法のランプを王子の眠るベッドの脇に置くと、魔法の短剣を持ち上げます。大きな魚の骨から魔女みずから削りだした魔法の短剣を。
 そして、空いたほうの手を伸ばすと、王子の髪をそっとかきあげました。
 あの嵐の晩に見たとおりの、美しくも力強い顔。人魚姫のことを何も知らぬまま、無垢なるが故に犯した罪により、今まさに断罪されようとしている男の顔でした。
 人魚姫の短剣を握る手が振るえ、その手が上がり、力なく下ろされ、そしてまた上がりました。今こそ、海の魔女の言いつけ通りに、勇気を出して王子を殺すべきときなのです。
 涙を振り払い、人魚姫は魔法の短剣を両手で握り締めました。心が燃える男の顔を見つめながら、それを高く振り上げる。
 そのときでした。人魚姫の目に、王子の向うで眠る王女の顔が映ったのは。
 人魚姫が命を賭けた努力をしても手に入らなかったものを丸ごと貰って、幸せそのものをバラ色の頬に浮かべている王女の顔を見たその瞬間、人魚姫はついに己の真の望みを悟ったのです。



 翌朝の宮殿は大騒ぎでした。

 王子の悲鳴で始まった朝は、大勢の衛兵が走り回る慌しい一日へとつながりました。
 そこにいた誰も、王子が眠っていたベッドの足元の床に広がる何かの染みの跡こそが、無残にも王女を殺した犯人の成れの果てだとは、想像すらしませんでした。
 人の来ない海の奥では、人魚たちが涙を流して、この呪われた結末を嘆いています。恐らくあと一日ぐらいは、彼らの悲嘆も続くことでしょう。海の民とはそういうものです。

 魔法の短剣もランプも、夜が明ける前に海の魔女の手により持ち去られてしまっていました。それらが人魚姫の手により海の底に戻されることはないと、あらかじめ海の魔女は知っていたからです。
 海に住む者、地に住む者、そして空に住む者たちにさえ恐れられている海の魔女も、その大元の部分では女性であり、人魚姫が愛しい男とその妻のどちらを殺すだろうかは、よくよく理解していたのです。