ただ一人怪異銘板

ただ一人 家鳴り

「家は夜の十一時になると壁がバタバタ音するんだよね」
 飲み友達が言う。
「妻には黙っているけどね。事故物件なんだ」

 親が不動産仲介業なので安く借りているらしい。その差額は秘密のお小遣いになる。
 事故物件の内容はお決まりの首吊り自殺。
「妻は不審に思っているけどね。ウォーターハンマーだとごまかしている」
 ウォーターハンマーはマンション内で誰かが水道を使うと、水が出たり止まったりに合わせて水道管を通じて音が響く現象である。
「その音が出る壁の横で首括ったんだ。時間もぴったり十一時」

 つまる所、死んだ後も毎日同じ時間にそこで首吊りをやらかし、そのとき苦し紛れに振り回した足が壁に当たって音が出ているわけである。

 このように音に纏わる怪異は多い。



 家鳴りという現象がある。古くなった家の木材が湿気を含み、色々と音を立てる現象だ。ぴしり、ぱしり。自分一人の家の中でも、よく耳を澄ませればさまざまな音が聞こえて来る。昔の人はこれらの音を家鳴りという妖怪のせいにした。

 一つ前に住んでいたマンションは、よく家鳴りのする部屋だった。もちろんマンションというからには鉄筋コンクリートなので壁や柱が家鳴りをするのではない。音は台所から聞こえて来る。「ペキ」か「ポン」という音で、つまりは台所のゴミにまとめてあるプラスチックのペットボトルが温度変化で鳴っているのだ。
 母はこの音が嫌いで、台所で音がするたびに怖い怖いと訴えていた。しかし原因がはっきりしているので、私は取り合わなかった。老人はつまらぬことで大騒ぎをする。

 母が死んだ後にも家鳴りは続いた。清涼飲料水をがぶ飲みしてゴミを貯めているのは自分なので、どこにも文句の持っていきようがない。うるさいが我慢するしかない。せいぜいがゴミをこまめに捨てるぐらいしか打つ手がない。そう考えると、ゴミ屋敷なんて音の洪水なのだろうな、と変なところに思考が向く。
 ある夏、家鳴りがとてもひどい時期があった。
 在宅勤務であるがコンピュータを使うのが私の仕事だ。プログラミングという作業は煮詰まると精神的に来るものがある。基本的にストレスフルの仕事の代表なのだ。深夜のチャットルームに帰宅したばかりのプログラマがこう叫びながら入って来たことがある。
「あああ、物を壊したい! 人を殺したい!」

 そんな仕事であるから、このときは家鳴りがとても気に障った。
「うるさいぞ!」
 怒鳴ってしまった。家の中には自分一人しかいないのに。
「こっちは仕事がうまくいかんでいらいらしとんじゃ! ちっとは静かにせえや!」
 もちろん本来の私は他人様に怒鳴りつけたりはしない穏やかな性格である。
 やっぱりこの仕事、自分には向いていないのかな?
 そのまま仕事を続けていて、ふと気づいた。

 家鳴りが止まっている。

 それから三日間、家鳴りはぴったりと止まった。ペットボトルが鳴っているのだとばかり思っていたが、実は完全なるオカルト現象だったようだ。
 三日ほど経って、おずおずという感じで家鳴りが再開したときはむしろ安堵した。
 何か怒らせてはいけないものを怒らせてしまったかもしれないと心配していたからだ。あちらの存在に粘着されるのだけは、何としても避けたい。小さいときにその恐ろしさは身に染みている。

 後年、霊が見える体質の人とよもやま話をしていたときにこの体験を話したら笑って答えてくれた。
「うちもそうですよ。家鳴りが酷いと、こっちがチッと舌打ちするんです。そうしたら止まりますね」
 どこでも事情は同じらしい。
 霊が立てるラップ音というのは生木が裂ける音と聞いていたためすっかりと勘違いしてしまっていた。これも聞いてみると次のような返事が来た。
「ええ、その通り、ペットボトルの音そのものですね」
 ラップ音の解説を本で読んだときは、まだペットボトルというものがこの世に存在していなかった時代であったため、あの独特の音を生木が裂ける音と表現したのだろう。すっかりと騙されてしまった。


 しかし、と思う。一般的な説明のつく現象に紛れ込んで、このようなオカルト現象がどのぐらい存在しているのであろう?
 窓の外から聞こえる電車の音は、本当に電車の音なのか?
 夜中に騒ぐ酔っ払いの声の主は、本当に肉体を持っているのだろうか?
 さかりのついた猫の声だと思っているものは、地面をハイハイしている死んだ赤ん坊の泣き声かもしれない。
 人間は無意識のうちに世界に自分なりの解釈を押し付け、安堵する。だがその実態は果たしてどのようなものなのだろうか?
 もしかしたら私たちの周りは、口にできないような、一目見たら魂を失ってしまうようなことで一杯に埋まっているのかもしれない。