ファンタジー短編中編銘板

剣の夜、微笑みの月:暗夜行(後編)

5)

 魔導士アーダラクが使っていた通信経路を使い、とりあえず対策局には犯人を確保したとだけ伝言を送った。魔導士の言を信じるならば逆探知はできない。

 アナンシ司教には犯人を確保したことだけを伝える。この魔導士のことを知ればアナンシ司教は絶対に自分の手駒にする誘惑に勝てない。だがそれは余りにも危険すぎる。
 かってのダークの軍勢や武力の大半を作り上げたのはこの男なのだ。アナンシ司教に紹介するのは彼が私の完全なる支配下に入ってからでないといけない。
 みんなの嫌われ者である対策局は特に喧伝はしていないがその実力は天界、魔界につぐ第三の勢力なのだ。そのバランスを崩すようなことをしてはならない。そんなことをすれば第二の闇大戦が勃発する。
 そしてこの魔導士アーダラクはそのバランスを崩すには十分な能力を持っている。

 アーダラクが用意したこの洞窟は厳重に魔法防御と魔法偽装が為されていて簡単には見つからないようになっているので、私たちはしばらく滞在した。
 その間に魔導士はあらゆるテストを私に試した。
 147種類ある洗脳魔術の痕跡を私の中に探し求めた。私もそれに異存はなかったので自由に頭の中も体の中も探させた。その中には相当痛みを伴うものもあったが、私は我慢した。

 魔導士に体をいじらせるのは危険ではないかって?
 その点は問題ない。今は二人とも魔法のギースの制約下にあり、相手を一方的に害することはできないようになっている。彼は私との契約を確かめるためにのみ、私の体を解剖することができる。その行為が私を直接害するものであった場合、従属のギースに対する反乱の形になってしまうため、彼はその罰として死ぬことになる。
 誓約が魔法的に高度に進化したものである魔法のギースは便利だ。その限界と支払いの大きさを見極めて使う限りは。

 とうとう最後には彼は机を殴りつけた。
「バカな。何もない。何もないだと。だが、何もない」
 私はそれを横目で見ながら、借りたアイロンで丁寧に神父服のシワを伸ばしている。
 バチカン対策局の被服部門は鬼より怖い。かぎ裂きでも作って帰ろうものならひどい目に遭わされる。私が五回連続で作戦中に神父服を破って帰ってきて以来、被服部門の長であるマダラク尼僧は私の人生を耐えがたいものにすることに決めたようで、色々と嫌がらせを仕掛けてくるのだ。これが地味に私の精神に来るので、服はできるだけ汚さないようにしている。
「アーダラク。いい加減に認めろ」
 私はウンザリとした口調で言った。彼の頑固さはそれだけで地球の裏側まで貫通できそうなほど硬い。
「だが、私は認めませんよ。我が君。どこかに見落としがあるはずなんです」
 私は綺麗にした神父服に袖を通した。うん、ノリが効いていて気持ちがよい。
 そして立ち上がった。横でコミック雑誌を読んでいたシェイプシフターのアラバムが飛びあがる。コミック雑誌は魔導士の趣味でそれを借りてきたものだ。山ほど積まれたコミック雑誌を読むためにアラバムは頭を二つ作り、同時に二冊を読んでいる。
「我が魔王。どうなさいました」
「その呼び方を止めろ。私はもう魔王じゃないんだ」私はぴしゃりと言った。
「でも習慣なものでして」アラバムは言い訳する。
 ダークの時代には私に口答えなど間違ってもできなかった。進歩したのは私か、それとも彼か?
「こうしていても埒が明かない。みんな付いてこい。出かけるぞ」
 私の言葉は、シェイプシフターに対しては単なる宣言、魔導士に対してはギースの強制下での命令として働く。
「どこへ」
「それは着いてからのお楽しみとしよう」
 私はニヤリとした。サプライズの楽しみをここで捨てたりなんかするものか。


 世界は一日の繰り返しの中で特定の場所と方向に従い、本来の三次元の他にもう一次元のパスを付け加える。
 それは妖精の道と呼ばれるものだ。
 正しくそれを解き明かしたものは、遠く離れた二点間を素早く移動することができるし、普通では行きつけない場所にたどり着くことができる。もっとも、その道の中には多くの住人が棲んでいて、その大半が肉食と来ているのが厄介なところだ。
 私はその道のいくつかにダークの時代に得た特殊な特権を持っている。ただしその半数はもう使えなくなっている。それらの道の所有者たちが私を裏切り者と見なしているからだ。

 今辿っているのはその中でもまだ使える道の一つだ。そしてこれには特別な名前がついている。
『天国へ至る道』ゴールデン・パスがその呼び名だ。
 私はためらわずに進み、アーダラクとアラバムの二人は私の背後にぴったりとついてきていた。道を知らぬ者には妖精の道は致命的な罠に満ちた迷路に過ぎない。もし私から逸れれば、命の危険を伴う程度にきつく厄介なことになるから二人とも必死だ。
 この妖精の道を探索するのにいったいどれだけの部下を犠牲にしたのか。妖精の道の住人たちに取ってはいきなり始まった大パーティのようなものだった。一杯食って、一杯殺して、そして一杯私に殺された。

 暴力と血に塗れた日々。少しだけ懐かしい。

 道は私の前で開き、私の後で閉じる。光は歪み、それが届かぬ闇の中から誰のものとも知れぬ視線が注がれる。私が横目で見つめ返すと、それは震えてさらなる闇の奥へと引っ込んだ。以前に私に痛い目にあっているからだ。
 あのときの口の中に広がった汚染された肉の味を思い出して、吐き気がした。次にやるときは噛みつき攻撃は選択から外そう。そう誓った。

 しばらく進んでようやくに妖精の道の大分岐点の一つにたどり着いた。
 ここの所有者は小さなネズミそっくりの妖精だ。見た目もネズミで体もネズミで能力もネズミそのものだが、知性がある。
 そのネズミ妖精がここに所有している土地の大きさは腕一本分の長さの三角形の土地だ。
 私たちの姿を見つけると、ネズミ妖精は自分の穴蔵から這い出してきて、チイと鳴いた。
「やあ、フィズ。久しぶり。元気にしていたようだな」
 もちろんそれの本当の名前はもっと長い。これは愛称だ。それはチィチィと続けた。ブリッジトロールのいつもの要求。
「通行料だね。いま払うよ」
「我が君」魔導士アーダラクが口を開いた。「こんな小さな土地です。飛び越えてしまいましょう」
「止めておけ。お前たちも私を真似るのだ」
 私はそれの領土に一歩だけ足を踏み入れると、指を傷つけて絞り出した血を一滴だけ、それの口の中に垂らした。
 アーダラクもアラバムも同様にする。
 それが済むと小さな妖精はまた自分の巣の中へと引っ込んだ。
 私たちは先へと進んだ。

 魔導士はさきほどの行為が気に入らなかったようだ。彼が覚えているダークらしくなかったからだろう。
「我が君。先ほどのは無意味な行為ではないのですか?
 通行料など払う必要があったのでしょうか。見たところあの妖精には何の力もありません」
 私はちらりと背後についてきている魔導士を見た。
「それは止めておいた方がいいな。確かにあの妖精にはさしたる力はない。だがそんな存在が大分岐点の中央に縄張りを持っているのはどうしてか考えたかな?」
 魔導士は押し黙った。
「あいつはな、妖精王の甥だ。だから誰もあいつには手を出さないし、あいつの通行料を踏み倒す者もいない」
 私は足を止め、魔導士の正面に立った。
「よく覚えておけ。アーダラク。どんな物事も見かけ通りほど単純ではない」
 魔導士の目の中に理解の光が浮かぶのを待ってから、私はまた前に進み始めた。
 アーダラクはここ千年の間で最大級の魔導士だ。それほど賢いのに奇妙なところで抜けている。それとも偉大なる知性とはこのようなものなのだろうか。
 すでに私とシェイプシフターの指の傷は治っている。魔導士の指の傷はもう少し残ったままでいるだろう。それが彼に分別というものを教えてくれればよいが。


 妖精の道を一つ越える度に周囲が明るくなっていく。今辿っている妖精の道は二十二の部分で構成されているが、さらにもう一つだけ人間には見つけ出せない隠された道が一つだけある。
 その最後の道を通り抜けると、至高の座であるケテルへと至る。

 あらかじめ知っていた私はサングラスをかけ、二人にもそうするように合図した。
 再びサングラス神父のできあがりだ。
「我が君。この道の先は・・」不安げにアーダラクが指摘する。
「自分が何をしているのかはわかっている。黙ってついてきなさい」
 ギースの鎖に繋がれて魔導士は逃げたくても逃げられない。
 目の前に現れたのは見渡す限りの白い平原の上に聳え立つ輝ける天国の門だ。門を中心に左右に純白の城壁が広がっている。これは物理的な障壁でもあり、魔術的な障壁でもあり、比喩的な障壁でもあり、認識論的な障壁でもある。
 世界とはそのようなものだ。

 魔導士がついにパニックになった。
「いけません、我が君。いくら貴方様が今は天界に与しているとは言え、これはいけません。我らはかってここに攻め入り、暴虐の限りを尽くしたのですぞ。もし見つかり次第、天使たちは我々を滅するでしょう」
 そのとき、門の横の鐘楼の上で警戒中の白い羽を広げた天使がこちらを見つけた。そいつは慌てて鐘を鳴らした。たちまちにして幾つもの鐘の音がそれに呼応し、天国の都市すべてが鐘の音で満ちた。
「ダーク・ワン! 我が君を止めるんだ。力づくでもここから出ないと」
 だが魔導士の叫びにシェイプシフターのアラバムは肩を竦めただけだった。
「我が魔王の御心のままに。それと俺はアラバム・バルカスだ。ダーク・ワンの名前は我が魔王にお返し申し上げた」
 ふむ。大変によろしい。確かに彼は一歩前進している。

 私たちはその場に立って待っていた。
 天国の門の内側が騒がしくなり、六人の大天使たちが走り出して来た。純白の翼を大きく開き、手に炎の剣を持っている。その背後に続くのは配下の天使たちだ。天国都市自体から無数に湧いてくる。
 かってここには十柱の大天使が居た。上位四柱の大天使であるミカマエル、ガブリエル、ラファエル、ブリュズガルドリエルは闇大戦の中で死に、残ったのは今目の前にいる六大天使たちだ。
 周囲を六大天使と無数の天使の軍勢が取り囲む。天使たちはいずれも私よりも大きい。
「あああ、なんということだ。かくなる上は我が命に代えても我が君を無事に逃がしてみせる」
 魔導士が構えた。その周囲に魔力が噴き上がる。
 シェイプシフターも構えた。とは言え、特に武装は持ってきていないので、ここまで手に持って来ていたコミック雑誌を丸めると、こん棒であるかのように握りしめている。
「二人ともやめろ」私はそう言うと周囲を取り巻く天使たちの前に一歩出た。
 私の動きに合わせて、六大天使たちが剣を胸の前に掲げると、左右に並んだ。それに合わせて天使たちの軍勢も道を開き、翼を開いて左右に海のごとくに立ち並ぶ。

 六大天使の一柱が叫ぶ。
「ファーマソン神父に敬意を表せ!」
 周囲の天使の海から轟きが発せられた。それは歌にも似て、叫びにも似て、歓喜の喘ぎにも似て、地獄の咆哮にも似ていた。
 大天使たちが一斉に膝をついた。それに合わせて天使の海が平らに凪ぐ。すべての天使が地にひれ伏していた。
 その膝をついた衝撃だけで輝ける白の大地が揺れた。
 私は片手を伸ばし、大天使ウリエルに触れた。
 柔らかく滑らかで、その実鋼鉄よりも硬い天使の肌が指の下を滑る。この接触の歓喜にウリエルの肩がわずかに震えた。
 彼らは秩序を尊ぶ種族だ。一度忠誠を誓った相手には終生忠誠を捧げる。

「全軍を都市へと戻しなさい。ウリエル。私とこの連れたちはこれより神の玉座へと登る」
 初めて大天使が顔を上げた。その瞳が私のものとぶつかる。強烈な鋼の衝突を思わせる戦慄が体を走る。天使という種族は、その動作一つ一つが魔力に満ちている。
 大天使は何かを言いたそうにしたが、結局無言であった。
「良いのだ。すべて承知している」私は大天使を安心させた。

 ひとたび命令が発せられれば彼らの動きは素早い。津波が引くように天使たちの群れが門の中へと消える。
「我が君?」まだ事態が呑み込めていない魔導士が言葉を漏らす。
 そろそろ真相を教えてやらねば、彼の体は好奇心で破裂してしまうだろう。
「つまり、私が天界に雇われたわけでも洗脳されて彼らの奴隷となったわけでもないんだ。アーダラク。実際はその逆に近い」
「と言いますと?」呆然とした顔で聞き返す。
 この魔導士はこんなに血の巡りが悪かったかな?
 賢明にもシェイプシフターのアラバムは口を噤んでいる。
「あの闇大戦で私は彼ら、つまり天界のトップに就任したのだ。今では彼らは私の部下となっている」
 二人のポカンとした顔に私はウインクして見せた。
「面倒なことになるから誰にも言うなよ」
「しかし我が君、それなら何故、天界の王として名乗りを上げないのですか?」
 この問いに対して、私は冷たい目で魔導士を見つめ返した。
「君にしては考えが回らないぞ。アーダラク。そんなことをすれば悪魔たちは私にこの天界の城に入れろと要求をするし、それをいくら私の下にいるかたと言って天使たちが認めるわけもない。そうなればどうなる?」
 少し間を置いて魔導士は答えた。
「第二次闇大戦です」
「だろ? そして私はそれを求めない。大事なのはこの世界に満ちる数々の勢力の危うい均衡を崩さないことだ。最終的にどの勢力が上に立つにしても、それは今よりも確実に悪い世界になる」
「我が君が上に立てばいいのです」
 私は嘆息した。この頑固者め。
「そしてここの玉座に一日二十四時間座り続けろというのか。
 大勢の臣下を名乗る者たちがひっきりなしに自分たちで解決するべき厄介事を持ち込ん来るのを裁けというのか。
 この世のすべての悪と失敗は私のせいにされ、毎日のように反乱を起こされ、暗殺者が送り込まれるだろう。
 あらゆる部族から選りすぐりの美女が送りこまれ、何とか私の歓心を買おうとするだろう。その騒がしさを考えただけでもぞっとする」
 私は手を叩いた。
「そうだ。我が賢き魔導士殿よ。そなたが玉座に座ればよい。そうすれば私は今まで通り自由でいられる」
 アーダラクはしばらく考えていたが首を横に振った。
「私はダメです。我が君。そんな事になれば研究の時間がなくなってしまう」
「だが世界の主になることができるのだぞ」
「私はそのようなものは欲しくありません」
 そう答えてから魔導士は絶句した。ようやく理解したようだ。
「そうだろ? 私も同じだ。神の玉座に座るよりももっと大事なことがたくさんある。だからお前たち、絶対にこの事は誰にも漏らすんじゃないぞ」
 一応アーダラクにはギースがかかっているし、アラバムの忠誠は揺るぎないものだから大丈夫のはずだ。それでも私は念のために付け加えた。
 ダークの口調で。
「誰かに言ったら、ひどい目に遭わす」
 自分で思っていたよりも、深い殺気が籠ってしまったようだ。
 二人がその場にへたり込んでしまったからだ。


6)

 城壁は限りなく高く、その内部は限りなく広かった。建材は常に白を基調としていて、後は穏やかな色が控えめに使われている。ただし黒だけはどこにも使われていない。
 天界都市の中はどこからともなく湧き出てくる光に満たされているという表現が正しいだろう。ここには世界中の人々の祈りが集められ、莫大な魔力の貯蓄池となっているのだ。
 天使族も半分異界の存在なので召喚されない限りはこの世界に存在できない。だが、世界中であらゆる人々が捧げる祈りが天使族の無期限の滞在を可能にしている。
 これこそが天界の勢力が優勢であることの根本要因である。
 私とアーダラクの周囲に高濃度の魔力が集まってきて微かに光が強くなった。このところ使い続けてきた蓄積魔力が補充される感覚に心が少しだけハイになった。
 これが天界都市の数少ないメリットの一つだ。

 我々が道を辿り進むと、周囲に奇妙な姿の者たちが集まってきた。炎が人の形を取ったもの。霧が集まったようなもの。触角を持った雷のボール。そのいずれもが空中に浮いている。
「精霊たちだ」私は説明した。
 精霊には決まった形というものがない。だから人の形を取っている精霊は人間との付き合いが長いと見てよい。言葉による意思疎通ができるのはこの種の精霊だ。
 それに比べて奇怪な形をした精霊は自分の性質に忠実なもので、強力な存在が多い傾向にある。
「ザ・ルールでは精霊は召喚されない限りこの世界に存在できないはすですが」とアーダラク。
「だから召喚されるまでの間に彼らが居るのがここ、天界の城だ」
 魔導士のすがるような目に私は首を横に振った。
「精霊たちは神に属しているわけでもないし、実際には自分たち以外のどこにも属してはいない。彼らは我々が言うところの神よりもずっと古く強力な存在だ。彼らがここにいるのはただ単に魔力の密度が高くて居心地がよいからだ。
 例えるならばこの世界は冬のようなもので、ここ焚火が燃えている場所に彼らは集っているに過ぎない」
「しかしザ・ルールは」魔導士が縋るような声で抗議した。
「ここの主になる前には私もザ・ルールは神が創りあげて運用しているのだと思っていた。今ではそうではないと知っているが、ではザ・ルールとは何かと問われればわからないと答えるしかない。
 精霊たちは本当にザ・ルールに縛られているのか、それとも縛られているように振舞っているだけなのか。それは私にもわからないんだ」

 精霊の中から一際輝くものが進みでてきた。人型をしていて二つの翼をもつ。そして全身が光を発している。翼の先の羽毛までもが光でできている。
 光の天使と呼び称される存在。
 それは口を開いた。
「やあ、ダーク。ここに来るとは珍しい」
 マドウフ・ベイル。太古の光の精霊。
「やあ、マドウフ・ベイル。光輝くものよ」私は挨拶をした。「久しぶりと言いたいところだが、この間の吸血鬼騒ぎで会ったばかりだな」
「そうだったかな。下界の記憶は留めるのが難しくてね」
「連れないな。今の時代、あんたを呼び出すのは私ぐらいのものだぞ」
「つまり君を殺せば私はゆっくりと永遠の昼寝を楽しめるということになる」
「本当はそんなこと、ちっとも思っていないくせに」
「君に私の心の何が分かるというのかね」
 言葉は突き放したものだが、光の精霊は微かに笑っていた。それは長い間の人間との付き合いで学んだものだ。
 我々は深淵を覗いて学習するが、深淵もまた我々を覗き返して学習するのだ。

 マドウフ・ベイルはその光でできた美しい眉をわずかに歪ませた。
「何だか臭いな。ダーク。前に体を洗ったのはいつになるのかね。百年前?」
「とんでもないことを言いだすな。あんたは」私は呆れた。
 念のために言っておくが、私は清潔好きだ。狼の姿のときでも体を舐めることだけは忘れない。
「いや、臭い。どれ」
 そう言うと光の精霊は口をすぼめて息を私に吹きかけた。
 焼けた石畳の匂い。夏のさなかのお日さまの匂い。弾けかえる魔力の匂い。原初の精霊の力。きらきら光る何かを含んだ熱い風。渦巻き清める何か。そして突風。
 自分の体に纏わりついていた悪臭が瞬時に消えるように感じた。アーダラクたちも驚いたような顔をしている。彼らも今のを正面から浴びたのだ。
 その高い鼻を使って空気の匂いを嗅ぐと光の精霊は満足したように言った。
「うん、だいぶマシになった」
「君の心遣いは有り難いが、マドウフ、そろそろ行かなくては」
「そうだな。ダーク。二度とその顔を私に見せないでくれ」
 それが合図であるかのように精霊たちは立ち去った。
 私たちは歩を進めた。玉座への道のりはまだまだ長い。


 白い小石を楕円形に磨いて小道の周囲に敷き詰める。たまにアクセントとして可憐な花の集落を間に散りばめる。自然に生えたように見えるがすべて計算し尽くして配置してある。
 こういうのを見ているとたまにそこにくしゃくしゃに丸めたハンバーガーの包み紙を投げ捨ててやりたくなる。だがきっとそれをやると管理役の天使が一晩泣きはらす羽目になるからやるわけにはいかない。
 やれやれ、人の上に立つ者は気が休まる暇がない。
 だから天界の経営も実際には六大天使に任せっきりだ。たまに重要な案件、例えば三大悪魔からの宣戦布告をどう躱すかなどの相談だけに乗っている。

 ウリエルたちが厳しく注意したお陰で、今のところ天使の姿はどこにも見えない。我々から見えない場所に隠れてこちらを見ているに違いない。
 やがて道は広くなり、天界都市の主道に出た。
 天界都市とは言え、ここは天使たちの住処というだけであり、実際に死んだ人間たちの魂が住む場所というわけではない。それはこことは別にある。
 主道の尽きる先はただ一つ。神の玉座だ。
 無数の天使たちが守っているので部外者がここまで来ることは普通はできないが、今回は私が案内しているのだから問題はない。
 神の玉座は文字通りの玉座で、正体不明の巨大な白い宝石を繰り抜いて作られている。そしてそこには誰も座っていない。
 我々はその玉座の前で立ち止まった。
 魔導士はもう好奇心ではち切れないばかりだった。左右を忙しなく観察している。玉座に文字でも彫られていないかと嘗め回すように見ている。
 ようやくその注意がこちらに戻って来た。
「我が君?」

 私は玉座に背中を向けてその前にどっかりと座り込んだ。二人にも座るように指で示す。ここの床はチリ一つ落ちていない。だから座っても神父服が汚れる心配はない。
 被服部門のマダラク尼僧は次に神父服を汚して帰ってきたら私にそこにある尼僧服全部の洗濯を命じると断言している。天使や悪魔よりも私は彼女が怖い。

 私は彼らに秘密を話し始めた。
「神はいない。そもそもの最初から」
「今なんと?」
「そして同時に神はいた。そもそもの最初から」
 私は背後の玉座を指で示した。
「我々は長い間、神という存在があり、そして我々を押さえつけていると感じていた。だがそれは間違いだった。この世界のどこを探してもそんな神は最初から居ない」
「しかし我が君。天使たちは」
「すべては詐術だった。新しい住処を見つけにこの世界にやってきた天使族はこの場を見つけ、それを神と断じた。少なくとも神ということにした。神が存在するという幻想を広め、それを持って世界を支配し、秩序を広げようとしたのだ」
 私は目を瞑った。そうしていると闇大戦がすぐ昨日のことのように思い出せる。
「この玉座の上にいるのは力の塊だ。ただし我々が考えるところの自我は持たない。いや自我はあるのかもしれないが、我々には理解できないし、会話もできない。ただ作用だけがある。それは神というよりは現象というのが正しい。ただそこにあるだけの現象そのものなのだ」
「しかし玉座にそれを安置できたということは天使たちは少なくとも神との意思疎通ができたということではありませんか」
 魔導士は抗議した。
「玉座に神を安置したのではない。ここに彼らが神と認めたモノがあったから、その周囲に玉座を置き、そしてそれを守る形でここ天界都市を要塞として築いたのだ」
 それ以上何かを言おうとした魔導士を俺は手で制した。
「あのとき、闇大戦の最後のあの時、玉座を護る四大天使が倒れ、誰もいなくなったこの神の座に、俺は座った。愚かなるダークは」

 ああ、あの苦痛。あの叫び。

「この『神』という場所はそれに触れた者に経験と知識を流し込む。この地球に生きたすべての者の魂に直結する記憶をだ。
 あらゆる意思、あらゆる意見、あらゆる思想、あらゆる望み、あらゆる絶望、悲しみ、苦しみ、喜び、泣き、笑い、怒り、落ち込む。
 際限なく、止めどなく、何の意図も、選択もなく、そして容赦がない。
 それはきっと消化というプロセスの別の形での現れなのだ」
「経験と・・知識ですか」
「そうだ。この地球に生きたあらゆるモノが過ごした歳月。そのものだ。それは俺に流れ込み、俺を押し流し、膨大な知識と経験の海の中で溺死させた。俺は避けようもなく百年分の人々の動物の植物の虫たちの細菌たちの魔物たちの生きざまの中に埋没した。それに包まれ、それに溺れた。強制的にすべてを学んだ」
 私は頭の中の記憶と一緒に暴れる無数の映像にめまいを覚えながら続けた。
「わかるか? アーダラク。洗脳ではない。元の人格も記憶も意思も意識もちゃんとある。ただそれに他のものが加わっているのだ。つまりは私は強制的に学び、成長させられたのだ。歳を取ったのだ。問題はそうして学んだことが今までの私の経験よりも遥かに大きいということなのだ」
 そしてそれらがすべて終わったとき、私はファーマソン神父になっていた。自分の中の奥深くに眠っていたファーマソン神父の人格を見つけなければ、ただの超がつく多重人格の人狼になっていただろう。もちろんそれは狂っていると断言して間違いない状態なのだ。

「我が君」
 まだだ。まだギースがカチリと嵌ったあの感じがしない。魔導士アーダラクはまだ心の隅では疑っている。
「だからな。アーダラク。我が魔導士よ。私はお前にも同じ試練を受けさせようと思う。そうすればきっと分かって貰えるだろう」
「我が君!」
 悲鳴を上げてヤツは逃げ出そうとした。私は素早くヤツの足を掴むと、ヤツを頭上に抱え上げたまま立ち上がった。
「止めて! 止めてください。お願いです。我が君」
「ダメだ。これしか方法がないことはお前も理解しているだろう」

 もちろん魔導士は理解していた。だから魔法のギースも私を止めない。私が洗脳されたのではないことを完膚なきまで証明できる方法がこれしかないとアーダラクも認めているからだ。そして私が彼を殺そうとしているのではないから、彼に命を返すと約束した魔法のギースも私を止めようとは働かない。
 私は悲鳴を上げ続けるアーダラクを玉座の中へと放り込んだ。その体が玉座から湧き出る乳白色の霧に包まれてこの世界ではないどこかに沈み始める。頭が霧の中に埋没すると悲鳴は聞こえなくなった。魔導士の伸ばした両手の先だけが霧から出ていて、私はそれをしっかりと握った。魔導士がその手を痛いほど握りしめ返す。もちろんもうまともな意識はないはずだから、純粋な反射運動だ。
「我が魔王?」アラバムが言った。
「お前はやるな。お前はシェイプシフターだ。無数の人格を受け入れれば、その時点で吸収した人格の数だけ体が分裂してしまう。最後は目に見えないほどの肉片になって死ぬぞ」
 アラバムの体がぶるっと震えた。玉座からできるだけ離れようと慌てて身を引く。
「もちろんやりませんよ」小さく呟いた。

 三十ほど数えた。アーダラクの手を引くと、乳白色の霧の中からやつの頭が現れて悲鳴を上げた。
「ああ、我が君。助けてください。早く引き上げて! ひどいんです。苦しいんです。たくさんの、たくさんの魂が!」
 まだだ。私は再び彼の頭を霧の中に押し込んだ。
 いまこの瞬間、大量の魂の奔流が彼の心を満たしている。

 それは苦痛なのか?
 その通り、この世の何をも越える苦痛だ。
 それは快楽なのか? 
 その通り、この世の何をも越える快楽だ。
 私がダークで彼の魔術施術を受けていたときを思い出す。あまりの苦痛に処置を止めてくれと何度頼んだことか。そして彼がそれを聞き入れることは決して無かった。
 我が君、ここが我慢のしどころです。これが終わったら、貴方様はもっともっと強くなります。
 微かに笑みを浮かべて彼は施術を続けたものだ。
 こんなところでささやかな意趣返しをすることになろうとは人生とはわからない。

 もう三十ほど数える。また引き上げる。
「おねがいです。わ、わがきみよ。もどさないでください。な、なかはほんとうにひどいんです。あらゆるコエが。あらゆるカオが。みとめます。あなたはセンノウされていない。だからだして! ここからだして!」
 まだだ。暴れるアーダラクの頭を再び押し込む。
「わがきみぃぃぃぃぃぃ」
 悲鳴が途絶える。

 私のときはひどかった。周囲に生きている者は誰もいなかったのだ。
 石化して砕けている大天使の残骸。血だまりの中でピクリとも動かない配下たち。ザリクの首は胴から切り離されていたし、ナブリオスは大天使の槍を受けて胴体に大穴が開いていた。他にも大天使の死体が三つに、魔物たちの死体が百近く。
 あれは本当にひどかった。何が一番ひどいのかと言えば、その光景に私、ダークが満足していたことだ。最も強い者のために他の者が犠牲になるのは当然だと本気で信じていた。
 そして私は何も考えずに玉座に座り、それが恐るべき罠であることに遅ればせながら気がついた。
 乳白色の霧の中にまともに引きずり込まれたのだ。誰も引き上げてくれる者もいないまま。
 自力で玉座から脱出するのには手こずった。この霧の中には方向というものが存在しない。
 自分の中にファーマソン神父を見つけ出して、魂の霧の中から脱出するまでに百年の経験の海の中を泳いだ。快楽も苦痛も希望も絶望も悲嘆もこの中にはあり余っていた。

 さらに三十。霧から顔を出したアーダラクは喉も枯れよとばかりに叫び続けた。
「我が君航空機はヒレを動かし燃え上がる大地の中満月と新月の恋愛は俺のケツの穴の先にあるアメリカ大陸のあの野郎女房に手を出しやがってやめてそれを壊さないで今夜のプロポースはICBMの着弾でステーキの焼き加減はメタハイドラヒドラジン」
 うん、よし、出来上がりだ。今度は彼の体を一気に引き上げた。これでほぼ十年分ぐらいの経験に相当するはずだ。
 恐怖の目でアラバムが見つめる中、私はアーダラクの頬をひっぱたいた。
 肉体の痛みはどんな場合でも最優先として扱われる。
 左右に忙しなく動いてたアーダラクの瞳がまっすぐ私を見た。
「狂えるこの千年紀の最悪最強の魔導士アーダラクよ。目を覚ませ。自分を取り戻せ」
 もう一回頬を張り飛ばす。
「真の自分を見つけろ。それを見失うんじゃない」
 うまく行くだろうか?
 私のときはうまく行った。だがそれは何の保証にもならない。
「俺が誰だか言ってみろ」
「あ・・う・・ダーク様」
「ではお前は誰だ!?」
「バージャック、いや、ボニアン。いやウィルカス。いや」
「狂える叡智たるザブン・テイラス・アーダラク」
「・・アーダラク・・」
「誇りある者よ。それがお前の名前だ」
 もう一度思いっきり彼の頬を張り飛ばした。彼の口の中で奥歯が折れる感触がした。
 大丈夫だ。今の時代には差し歯という技術がある。
 アーダラクの目の焦点があった。それと同時に私の回りで魔法のギースが踊り、頭の中でカチリと音がしてきちんと嵌るのがわかった。
 魔法のギースは完成した。
 アーダラクが改めて認識したのだ。これは洗脳ではなく、学習なのだと。

 私は両手を伸ばし、魔導士の肩を掴んだ。
「聞きなさい。アーダラク。私は・・ダークは・・自分を特別な存在だと思っていた。不死身の肉体に鋼のような精神。一片の躊躇もなく、他者を滅ぼす特別な力を持った存在だと」
 隣でアラバムが驚いたような顔で私を見つめている。ダークのすべてを知っている彼にしても初めて聞く言葉だったのだ。
「だが私は学び、そして知ったのだ。私の冷酷さは特別な贈り物などではなく、むしろその逆を示すものだと。誰もが他者に示す共感、同情、優しさ。人を人たらしめるそれらすべての必須なものが、ただ私にはひどく欠けていただけなのだと」
 私は周囲に向けて手を振ってみせた。
「これもそうだ。ここにあるのは神という名の幻想、そしてそれを使って何とか世界の秩序を維持しようと頑張る天使たちの努力しかなかった。それなのに私は居もしない神を敵として大勢の者たちを巻き込みながら無意味な破壊と殺戮を行っていたのだ。まるで他者が作り上げた積み木を崩す歪んだ三歳児のように」
 私は天を仰いだ。天界の空は地上よりも深い青だ。
「私は人間の思春期にありがちな一人相撲をしていたのだ。それが分かったとき、私は自分が引き起こしたこの惨事を少しでも和らげねばならないと悟った。私が受けた経験の中には私自身の犠牲者も多く含まれていた。
 天界の勢力はそれまで見せていた姿とは異なり驚くほど弱く、崩壊寸前だった。悪魔たちは天界を征服したがっていたがそれを統治する気はなく、死と破壊の後にはすべての世界を巻き込んだ滅亡が見えていた。
 だから私は失われた均衡を取り戻すべく、天使たちの側に立ったのだ」
「我が君」アーダラクは私の腕にしがみついた。
「私も自分を見て知ったのです。無数の人々の目を通して見つけたのです。何という無意味な人生。無意味な望み。魔法など極めて何になる。ただのでっかい花火を打ち上げられるようになるだけではないか。それを共に見るべき人々は足下に倒れて死んでいるというのに」
 彼は言葉を続けた。
「私は今になって初めて、自分が真に狂っていたことに気づいたのです」

 ああ、我が友たる賢くて同時に愚かなる魔導士よ。今更それに気づいたのか。
 今まで多くの人々が彼を狂っていると評していたのに。

 ついに私たち二人は真にお互いを理解したのだ。
「よし、では君にかけたギースを解こう。君を自由にしよう」
 驚いたことにアーダラクはそれを断った。
「我が君。私はあなたに従い続けます。ギースはそのままにしておいてください。私は自分の中を覗き、そこに何があるのかを知ったのです。ふたたび私が狂ったときのために、我が手綱は付けたままにしておいてください。これ以上の罪を冒してしまう前に」
「そんなことを言って今度は私が狂ったらどうするつもりだ」
「その確率は私が狂うことよりも少ないはずです」
 私は冷たい目で彼を見て言った。
「それはどうかな?」

 沈黙が落ちた。私も魔導士も自分の頭の中の光景を覗いていたのだ。
 アラバムがこほんと咳をした。
「懺悔の時間は終わりですか?」
「ああ、たぶん」
 私は立ち上がった。周囲には誰もいないが、天使たちは間違いなく我々を見張っている。何か異常があると感じたならば助けようと飛んで来かねない。
「残る問題は一つだけだ」
 そう、もっとも重要な問題だ。
「アーダラク。昏睡した者たちを魔法から解放してくれ」
 アーダラクの動きが止まった。
「その、我が君」
「どうした?」
 アーダラクは私との従属ギースの契約の下にある。意図的に逆らうことはできないはずだ。
「その、できないのです」アーダラクはようやく言葉を結んだ。
「できないとはどういうことだ。お前がかけた魔法だろう?」
「違うのです。我が君。あれは太古の魔神ジャブ・・」
 私の手が素早く動き、彼の口を塞いだ。
「その名前を口に出すな。アーダラク。書くのもダメだ。あいつはそれを召喚の合図と捉えて自ら出現することができる」
 アーダラクの目が泳いだ。
「それは不可能です。我が君。ザ・ルールが・・」
「聞いて驚くなよ。あれはザ・ルールを無視できる。少なくともその解釈をゆがめることができる」
「バカな」
 そこで私はバー・ザー・ランの孫娘に何が起きたのかを話してやった。例の名前は抜きでだ。名前ではなくただの代名詞なら、さすがのヤツも介入できない・・はずだ。
「我が君。あれは向こうから私に連絡を取って来たのです。今は顧客を増やすためのバーゲンセールだと言っていました」
「何と、下世話な表現だ。太古の魔神だとは思えない」私は感想を漏らした。
「だから契約の条件は向こうから出して来たのです。こちらはそれに同意するだけでした」
「どんな契約だ」
 思わずアーダラクの肩を掴んで揺さぶってしまった。
「我が君。その内容はこうです。選ばれた相手を一定時間の昏睡に落とし、その後それらの魂を魔神に捧げると」
 無茶苦茶だ。つまり契約者の存在はあくまでも魔神がこちらの世界に干渉する言い訳に使っているだけで、実質魔神が勝手に動いているに等しい。明らかにザ・ルールに抵触するがあいつはそれができる。
 そして魔導士にそんな契約を持ち掛けたのは、私に対する挑発だ。私を玩具にするとはこういうことか。私に関わりのある者たちをまず破壊し、怒り狂うか泣きわめく私をどこかで眺めて楽しもうというのだ。
「その刻限が切れるのはいつだ」
 自分でも恐ろしく冷たい声になってしまった。
 額に冷や汗を浮かべた魔導士は腕を持ち上げてローブの袖をめくると、二の腕に嵌めた腕時計を見た。似合わないことに純金のロレックスだ。魔導士にロレックス。狂える魔導士の名前は伊達ではない。

「我が君。実に言いにくいことですが」アーダラクはしどろもどろになった。
「五分前にその時間が過ぎています」
 彼をその場で殺さなかったのは自制の賜物だ。今の彼は私が命令するだけでギースの力で死ぬが、そんな簡単な死は生ぬるいと思ったのも事実だ。
 エマにアンディに子供たち。その全員がたった今、死んだ。

 その事実に私は打ちのめされた。


7)

 帰りの妖精の道はほぼ無意識で歩いた。
 抑えきれない怒りが、そして殺気が体の周囲から立ち上る。その大部分は自分に対するものだ。
 二人が後を無言でついてくる。もし一言でも何かを喋ろうものならばその場で殺されると、二人とも理解していたのだろう。
 妖精王の甥が守る領地に差し掛かり、ネズミ妖精が出てくると、私はナイフで自分の指一本を切り落とし、滴り落ちる血をその喉に流し込んでやった。
「三人分だ」
 ついでに切り落とした指もネズミ妖精に押しつけて進む。
 この程度で私の罪の穢れは晴れない。切り落とした指もじきに生えてくる。

 心はここにはない。
 ジャブラビ・ヘルター。その名前が頭の中で反響する。
 太古の異教の魔神。ザ・ルールに縛られず、通常の魔法とは異なる魔法を使い、しかも一切の制限なしで自分の力を振るっている。
 核爆弾を持った猿ほどに危険な存在だ。
 前回の遭遇以降、バチカン本部に睨まれるのを承知の上でバチカンの裏古文書保管室に入る許可を貰い、そこでジャブラビ・ヘルターについて調べた。
 あの存在についての記述はほんのわずかしかなかった。
 古代の異種族の神。あれは神性を獲得した後に、自分を崇拝する種族を皆殺しにしている。これは親殺しと呼んでもおかしくないほどの掟破りの行為だ。
 ヤツはそうして得た莫大な生贄の力を使い、自分をより高いステージへと押し上げた。だがその結果として傭兵としての暮らしを行わざるを得なくなった。つまり召喚されては依頼をこなし、代わりに生贄や供物を得るという形だ。
 ヤツに抗し得る存在は同じく太古の精霊ルフテン・マブそのもののみ。なるほどヤツも無敵というわけではなかったのだ。
 問題はルフテン・マブに関する記述がそれ以外に一切見つからなかったことだ。召喚法も不明ならば、実在するのかどうかも不明。
 ジャブラビ・ヘルターに関する記述を残したのは二千年前に存在した過去幻視能力者の一人だ。その人物は古代アラム語の暗号化記法でこの秘密の記述を残した直後に死んでいる。恐らくは自分の過去を覗き込んだ者がいることに気づいたジャブラビ・ヘルター自身により始末されたのだろう。
 つまるところ、ジャブラビ・ヘルターに対抗する手段はなく、最悪なのはそいつが今、私の人生を耐えがたいものにしようと頑張っていることだ。それもただ面白いからという理由だけでだ。
 冗談ではない。
 エマもアンディも私に関わって死んだ。そしてこれからも私の回りで大勢が死ぬだろう。これ以上の被害を出さないためにも住み慣れた対策局を出る必要があるだろう。


 対策局の建物はまるで何事も無かったかのように平常運転に戻っていた。
 事務所に入るとそこに鎮座まします山の如きアナンシ司教に冷たい目でじろりと眺められたが、私は魔導士アーダラクの腕を掴むとアナンシ司教の前に突き出した。
 彼が私のギース支配下にあることはすぐに知れるので殺されることはないだろう。死んだ方が良いと思わされる可能性はあるが、それは私の預かり知らぬところだ。
 シェイプシフターのアラバムは掃除係のジャブゼスに変身して事務所の中をちらりと見てから姿を消した。これでオフィスへの出頭命令を果たしたつもりらしい。賢いヤツだ。

 項垂れたまま歩廊を抜けた。自然に足は訓練場へと向かう。
 前方で大勢が騒ぐ音がした。
 訓練場で告別式でもやっているのか。
 エマやアンディの死体に向き合うだけの勇気が私にあるだろうか?

 剣戟の音。打ちあう武器の音。喘ぎ声。
 告別式には似つかわしくない音。まさか襲撃?
 いや。違う。
 私は強烈な衝動に突き動かされ、足早になり、最後は走った。
 訓練場の中に飛び込む。3秒前に部屋に飛び込む私の姿を見たアンディが顔を上げ、それを知ってエマが飛びついてきた。
「神父!」神学生たちが集まって来た。私の回りに人垣ができる。
「どういうことだ!?」
 いかん。泣きそうだ。そんな姿は意地でも子供たちには見せられない。
「どうって、何時間か前に皆昏睡が解けたんです。マスターが何かしてくれたのでしょ」
「いや、私は何もしていない」

 本当にそうだろうか?
 あのろくでもない魔神が気を変えて魔法を解いた?
 それだけは絶対にあり得ない。あれは慈悲とは無縁の血と悲鳴と命を貪る魔神だ。

 これまでの私の行動のどこかに、ジャビラブ・ヘルターに影響を与える何かがあったのだ。魔神の弱点に触れる何かがだ。
 それを解かない限り、私の命は、そして私の周りに居る者たちの命はそう長くない。