渡る世間は銘板

渡る世間は 角来たり

 中国の古い話に人が鬼になる話がある。
 ある町に住んでいたある男に、殺したいほど憎い相手がいた。殺意は破裂寸前まで膨らみ、今日こそはあいつを殺そう、明日こそはあいつを殺そうと考えるも、なかなかその機会が無かった。ある日ふと気づくと、自分の影が鬼になっている。影の頭に角が生えていたのである。これに驚き深く反省した男は計画を実行せずに他の町に移った。そうして、恨みを捨てて穏やかな日々を過ごしたところ、ほどなく影からは鬼の角が消えて元に戻ったという。


 私もその昔、角が生えかけたことがある。

 最初に入った大企業で、長期に渡る大規模な設計プロジェクトが始まり、その一員に送り込まれた。仕事自体は向いていたが、問題はそのときの担当となった課長であった。
 私には昔から自分ではどうにもならない悪い癖がある。
 頭の良い人間には好かれるが、頭が悪い人間には蛇蝎のように嫌われるという癖だ。こちらとしては特に何をするわけでもないのだが、何故か頭の悪い人間はこちらに素早く目を付け、親の仇のように憎むのである。こちらが顔も知らないような人間に心深く憎まれてしまったことも、何度かある。
 物言いにも注意しているし、軽口をたたくわけでもない。それでも私の顔を見るだけでムカムカすると言われてしまう。
 オーラが見える人に言わせると私の頭の上に何か強烈な光が噴き出ているらしいのでそのせいかも知れない。まったく持って迷惑な話である。

 このプロジェクトの課長は京大出のエリートだったが、ひどく頭が悪かった。学歴と実際の賢さは別物という良い証拠である。おまけに人に嫌味を言うのが大好きで、権力を奮うのが三度の飯よりも好きという救いようのない人物であった。毎日課長席に座って、自分の頭を撫でながら、うっ、とか、あっ、とかの謎の呻き声を発する人物でもあった。
 製造を基本としたプロジェクトは何か事件があればあった分だけ工程が遅延するものである。このときのプロジェクトはコンピュータの中枢部であるCPUに関するものであり、その驚くべき複雑さゆえに特に遅延の危険性は高かった。
 課長はプロジェクトが遅れ始めると一日置きに会議をするようになった。管理職が陥りやすい罠である。それによりさらにプロジェクトが遅れた。すると毎日会議をするようになり、そのためさらにプロジェクトが遅れた。
 普通この辺りで、どうしてプロジェクトが遅れるのか判りそうなものだが、彼はそれが自分の行為のせいだとは考えなかった。会議を減らしてくれという部下の進言も無視して、連日八時間に及ぶ会議をするようになった。こうしてプロジェクトが致命的に遅れを見せるようになると、これは部下がさぼっているからに違いないと、一時間ごとの進捗報告を義務づけるようになり、さらにさらにプロジェクトは遅れた。そしてついには十五分単位での進捗報告を義務づけるに及んで、プロジェクトは完全に停止した。

 これを頭が悪いと言わずして何と言うべきなのか?

 このような愚かな人物であったため、当然の帰結として、私は憎まれた。まあ、それを言えば、必死にゴマをするたった一人以外はすべて憎まれたのだが。
 俺様の管理するこのプロジェクトが遅れているのはこれら無能な部下のせいだ。本気でそう思い込んでいるようであった。
 連日のように続く嫌味と嫌がらせに、こちらも課長を深く憎むようになった。権力を笠に着た嫌がらせほど腹が立つことはない。さらには大勢の後輩が同様の嫌がらせにより会社を辞めざるを得ない立場に追い込まれたことも、憎しみに輪をかけた。

 やがて憎しみは殺意にまで成長した。
 今日こそは殺そう。明日こそは殺そう。そう思いながら毎日を過ごすようになった。道具を使うのなんてもったい無い。この仕事場の窓ガラスにこいつの頭を叩きつけよう。ガラスが割れるまで叩きつけて、それから開いた窓から外の路上へ投げ落とそう。七階から落とせば死は免れまい。そんなことを夢想するようになった。

 そんなギリギリの日々を送るある朝、顔を洗っていてふと気づいた。わずかだが額の両側が盛り上がっている。最初は何か肌が荒れることでもしてしまったのかと思った。連日連夜の激務で体調は最悪だったからだ。だが、しばらく調べて結論した。これは皮膚が厚みを増したというものではない。骨がわずかだが隆起している。
 人が鬼になる、の話は知っていたが、あれは影が変化するのであって、肉体が変化したという話ではない。これは予想外の上に予想外の現象だ。

 超堂現象という言葉がある。催眠術で被験者の手に熱い火箸を押し付けたと信じ込ませると、皮膚に火ぶくれができるような現象を示す。精神が強く思うと肉体が反応する。こういう体質を超堂体質と言う。

 自分がそれであったとは初めて知った。
 だが、まあ、いいか、とも思った。鬼になるならそれでよい。人を殺そうとしているのだ。鬼になるのもいたしかたあるまい。ごく自然なことだ。
 とまあ、そこまで壊れていたのである。殺意は人を殺すが、同時に自分も殺すものなのである。
 幸いにして、七三分けの髪型に隠れて額は見えないし、それほど盛り上がっているわけではない。触られない限り、他人に気づかれることはない。
 それでも日を追うごとにじわじわと骨が盛り上がる。
 これはその日も近いな、とは思った。

 一つのフロアには五十人近くの人間が詰めかけて仕事している。その中で、問題の課長の周りだけには丸く無人の輪が出来ている。他の課員も課長の顔を見るのが嫌さに、何かと理由をつけてどこかに行っているためだ。理由を見つけられなかった者はそこに残り、課長の嫌味に耐えることになる。他に人がいないので、なおさらそこに残るのは嫌な体験となる。
 ある日の嫌味はとくに強烈だった。みしり、という感じで体内で殺意が膨れ上がる。もうダメだ。我慢できない。今日、私は殺人者になるのだ。そう思いながら、会社の入っているビルの一階下にいる別の課へと一時避難する。

「どうしたんですか? 犯罪者の顔をしていますよ」
 後輩に言われて、はっと気づいた。
 自分は何をしているのだ。課長がどれだけ愚かで嫌味な野郎でも、そのために自分が犯罪者になってどうする?
 所詮は赤の他人なのだから。
 その場で会社を辞めることを決意した。今まで辞めていった同僚たちは、みな人事に課長の事を話して消えて行った。それでも会社は何も変えようとはしなかった。だからこそ、この会社には、もう未練はない。
 その年を最後に私は会社を去った。

 故郷に帰って、しばらくのんびりと過ごした。その間に無茶苦茶になった体調を整える。母親が見様見真似の整体をしてくれた。たちまちにして体重が十キロ落ちる。ストレスで全身に浮腫みが出ていたのが、一気に収まったせいだ。全身の穴という穴から出血していたのが、止まる。ストレスは命を削る病なのだ。
 横になった私の頭のツボを押していた母親の手がふと止まった。額に飛び出かけていた骨の隆起を引っ込まないかと押している。
「お前、これ」母がつぶやく。
「もう終わった」と目を瞑ったまま返事を返す。
 それ以上、母は何も言わなかった。
 生えかけていた角はそれから半年の内に収まり元の平な額に戻った。古い話そっくりの結末である。

 私はそこから貴重な教訓を得た。
 人という生き物は、生きながらにして鬼に変ずることもある。鬼は人の内に潜むというのは本当なのだ。